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ルカによる福音書20919

  イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産はわれわれのものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは何の意味か。

『家を建てる者の捨てた石、

これが隅の親石となった。』

その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

 


『ぶどう園のたとえ』 

 

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

第一コリント1章に記された言葉です。

 

神の愚かさという言葉は、おそらく私たちは、自分の口で語ることは滅多にないだろうと思います。キリスト者の皆さんであれば、神様の素晴らしさや、神様のありがたさについて語り合うことはあっても、神の愚かさについて思いめぐらすことも、語り合うこともないのではないでしょうか。

でも、パウロは、大胆な表現をとりました。

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 

わたし自身も、今まで、神の愚かさということは、ほとんど考えたことがないまま、このコリント書の御言葉を読んでいました。

でも、今回、ルカ福音書20章のたとえ話を読みながら、わたしの心には、神の愚かさという言葉が、はっきりと浮かんでまいりました。

 

天の国のたとえです。神の国、神の救いのみわざ、私たちがいかにして救われるのか、といったことが分かりやすい形で伝えられている、それが天の国のたとえ話です。

 

先週の礼拝でも、とてもわかりやすいたとえ話を学びました。放蕩息子のたとえ。

あの放蕩息子が、お父さんに温かく迎えられる姿、その中に、私たちひとりひとりが、どのように救われるのか、神の救いのわざとはどういうものなのか、神様の私たちに対するみ心とはどのようなものなのか、それが余すところなく表現されていました。

 

今日のみ言葉も、たとえ話です。主イエスがなさったのですから、それは、天の国のたとえです。神のみ心を表わすものです。

その話の中に、神の愚かさが表現されておりました。

 

俗な言い方をすれば、親バカとなるでしょうか。自分の子供可愛さのあまり、冷静さを失って、客観的に見る目を失ってしまっている親の姿。

もちろん、神様の場合は、そういった次元ではありません。でも、私たちを思うあまりに、愚かにさえなっておられる神さまのお姿が、たとえ話の中に出てまいります。

 

ぶどう園の主人です。農夫たちぶどう園を託して、自分はしばらく旅に出る。

これは、当時の社会でしばしば見られたことのようです。大地主は、都会や外国に住居を定めて、自分の土地の管理は、誰かに託す。そして、それがこのぶどう園のように収穫を伴うものである場合は、収穫の季節になると、それを取りに行く。

 

農夫たちにも取り分がありました。

新共同訳では、そこが明確ではありませんが、多くの翻訳は、その収穫の中の取り分を貰いに行った、とか、分け前を取りに行った、と訳しています。

主人の取り分がある、そしておそらく雇われていた農夫たちにも分け前が与えられていたのではないかと思われます。

 

そういう背景を読みとっておくと、この農夫たちのしたことが、いかにエゴに満ちたものであったかということが見えてまいります。彼らは、主人の取り分を渡したくないと思ったのです。これは主人の分、これは自分たちの分、という具合に、分けることを拒んだ。全部、自分たちのものにしてしまいたい、と願いました。

 

強く物を言う権利をもっているのは、当然ながら主人です。

ここは主人の土地なのですから。農夫たちは、雇われていたにすぎないのですから。

でも、農夫たちには、その当たり前が、もう当たり前でなくなっているようです。

 

私たちの周りにもよくあります。はたから見たら、これが当たり前と思われることが、少しも当たり前でなくなっている。そういうことは珍しくありません。

特に、日本人はそうらしいです。日本の常識は世界の非常識と言われるくらいですから、私たちの考える常識とか、私たちの考える当然のことというのは、必ずしも、そんなに普遍的なことではないのです。このくらい当たり前だろう、とふんぞり返るのは、時として、控えたほうがよいものかもしれません。

 

話はずれましたが、農夫たち主人。どちらに当然の言い分があるかと言えば、それは、主人のほうです。

ところが、主人は、少しも強気な姿勢を見せません。それどころか、愚かです。

ひとり目の袋だたきにあったのに、また、ほかの僕を送っている。乱暴者たちのところへ。案の定、これも、ひどい目にあわされて帰ってくる。そして、さらに、三度目のチャレンジ。また別のを送る。これまた追い出される。

 

しかも、注意して読みますと、農夫たちのやり口が、次第にエスカレートしている様子が伝わります。

最初は、袋だたきにして、何も持たせないで追い返したとありました。次は、これに、侮辱してというもう一つの行為が加わります。そして、三人目の時は、傷を負わせてほうり出したとあります。もはや、人を人とも思わないような仕打ちです。

 

ところが、主人はまったく懲りていません。三人の僕を乱暴に扱った、あの農夫たちのところへ、大切なひとり息子を送るといいます。たぶん敬ってくれるだろう。と言って。

 

それこそ、客観的に、冷静に物を見る目があれば、たぶん敬ってくれるどころか、たぶん、またひどい目にあわされる、ということは、目に見えています。

 

やって来た息子を見ると、農夫たちは、これは跡取り息子だ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。と言って、これを放り出して、殺してしまいました。

 

この≪放り出す≫と訳されている言葉は、たとえば、主イエスが悪霊を追い出された、というときに使われるのと同じ単語です。

追い出すというのは、本来、入ってくるべきでないものを追い出すはずです。でも、雇われた側が、雇った側を追い出している。

 

農夫たちは、はじめ、主人の取り分を渡すことを嫌がりました。すべての収穫を、自分のものにしたい、と願いました。

しかし、跡取り息子を見たとき、この土地そのものの所有者でありたいという気持ちになりました。その結果、その跡取り息子を追い出し、亡き者にしてしまいました。

 

実際には、まだぶどう園の主人がいるわけです。なのに、彼らは、もうこれで土地は自分たちのものになる、と思い込んでいます。

 

この話は痛烈です。それは、私たちひとりひとりが、常に、いつ、どこにいても、まるで神様がいないかのようにふるまっているか、という点で、です。

私たちも皆、ぶどう園で雇われている農夫です。誰ひとり、この土地はわたしのもの、などと、所有権を訴える権利など持っていません。

 

もちろん、社会的には、当然の権利として、それこそ当然の権利として、ここからここまでがわたしの土地とか、これはわたしの財産であるとか、あるでしょう。

でも、どうでしょうか。この世の常識は、あの世の非常識になりはしないでしょうか。

この世の常識を振りかざしていると、最後に、とても愚かになってしまうのは、だれなのでしょうか。

 

このたとえ話を読むとき、一見、愚かなのは、主人です。本当に愚かです。

でも、農夫たちも愚かです。愚かで、乱暴者です。

 

このたとえ話を通して、この愚かな農夫たちの姿に、自分を投影しなければなりません。

律法学者たちや祭司長たちが、自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたように、私たちも気づかなければなりません。

 

この農夫たちに自分を投影する近道があります。

このあと行う献金です。きょうも礼拝で献金します。そのとき、私たちは、いつも、いささかいやな気持になります。神様の取り分を返したくない気持ちになります。

 

ハイ、もちろん、喜んで、ときちんと主人の取り分を返しているでしょうか。

むしろ、こちらの権利を叫ぶ心が起こっていないでしょうか。返したくない気持ちは起こっていないでしょうか。

 

今年はサッカーワールドカップの年ですが、海外のサッカー選手などを見ていると、ゴールを決めると、よく天を指したり、十字を切ったりしています。

どのくらい信仰があるかはわかりません。もう癖になっているのかもしれません。

 

でも、その仕草が示すのは、これは、わたしの力ではありません、あなたがわたしに下さった力です、あなたからわたしに授けられている賜物です、だからほめたたえられるべきは、わたしではなく、あなたです、という思いを込めているポーズだと思います。

 

本当は何でもそうなのでしょう。なのに、さまざまな場面で、すべては主人のもの、と言うことを、もうとても思えずにいる私たちがいます。

むしろ、すべては神様のものです、と言う方が、愚かに思えてしまっている私たちがいます。

それが、私たちの罪です。すっかり神さまに背を向けている私たちの姿です。

 

その私たちを救うのは、何か。それが、神様の愚かさです。こんな私たちであるのに、忍耐をもって、今度はあの手で、次はこの手で、と救いの御手を差し伸べられる。

 

本当の権利を主張してしまえば、とっくに終わりのはずなのに、そうなさらず、待っていてくださる。この子は、きっと、いつか帰って来てくれる。いつか悔い改めてくれる。いつか、豊かな実りを返してくれる。そう信じておられる。

 

でも、その期待は破られ、最後に送った息子は、ほうり出されて、殺されました。

 

しかし、そうして捨てられた石、大工さんたちが、こんな石は役に立たない、と言って、捨てた石が、その家を下からグイっと支える隅の親石となる。

詩編の118編には、続けてこう書いてあります。

家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。

これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。

 

それは、何を表わしているのか。

神様の愛は、不思議なほどだということです。あの放蕩息子を、迎え入れる神の愛は、まったくの主の御業であって、わたしたちの目には驚くべき、不思議なことです。

 

と同時に、そこで見なければならないものがある。それは、神のみわざをそこまで働かせるほど、私たちの罪が、実は、驚くほどに、深いものであるということです。

 

今日のたとえ話が、いろいろな意味で、愚かに見えるのならば、それはイコール、私たちの罪が、いかに愚かなほど深いものであるかということを表わしているのです。

それがわかると、その深い罪のゆえに、イエス様が背負われた十字架が、どんなに重いものとなったのか、それが見えてまいります。

 

私たちが何をどんなに叫んでも、私たちはどこに立っているかと言えば、私たちの代わりに一番下のところで、家を支える隅の石となられたお方のおかげ。

このお方が、下のほうでいつも踏ん張っておられるから、私たちは生きていられる。

 

サッカーの選手の反対で、下の方を指さしてもいいくらいです。

わたしが今、こうしていられるのは、いつも下で、隅の親石となって支えておられるあのお方のおかげです、と下を指さして、表明すべきなのかもしれません。

 

イエス様は、そのように、御自身を低くされることを、喜ばれました。そこに神の愚かさがありました。

 

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

私たちは、その愛によって支えられています。

 

そして、そのうえで、やはり、今も私たちを農夫として、送り出される。

わたしのぶどう園はお前たちに任せた、と言って、送り出される。この地で、より良き実りを結び、御主人さまに喜んでいただけるように、過ごしていきたいと思います。

 

                           2010321日 礼拝にて

 
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