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ルカによる福音書192848

 

  イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。

  イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。

  「主の名によって来られる方、王に、

   祝福があるように。

   天には平和、

   いと高きところには栄光。」

  すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

  エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もし、この日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

 

  それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、

彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」

  毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、

どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

 

 

 

『エルサレム入城』  

 

水曜日の聖書の学びで、ヨハネの黙示録を読みました。先週、学び終えました。

ヨハネの黙示録は、オカルト映画のネタになったり、新興宗教において、変にクローズアップされたりして、誤解を受けやすいのですが、本当は慰めと励ましに富んだ手紙です。キリスト教に対する迫害が激しかったころ、今日にも明日にも、殉教の死を遂げるかもしれないという状況の中で、信徒たちを励まし続けた手紙です。

 

読み進めていきますと、讃美の歌声が聞こえてきます。天上の讃美です。天使たちの歌声、あるいは、すでに殉教の死を遂げた信仰の先達たちの歌声です。

先週、福地さん母娘のチャリティコンサートを行って、栄光教会にもすてきな歌声が響き渡りましたが、黙示録も高らかな讃美がこだまする書物です。

 

恐れるな。勝利は天にある。天の歌声は響いている、信じてつながり続けなさい・・・という熱い思いが、黙示録の迫力ある言葉を生んだ、と表現してもよろしいでしょう。

 

さて、その点で言えば、私たちがいま日曜日ごとに学んでおりますルカによる福音書も、たくさんの歌声が聞こえてくる書物であります。

特に、何と言っても、クリスマスの御言葉が思い出されます。いや、クリスマスと言えば、ルカ福音書と言った方がよいかもしれない。昨年も、藤枝礼拝堂で子どもたちが聖誕劇をかわいらしく演じてくれました。台本の中にたくさんの歌がありました。先生たちが創作した歌ではありません。ルカ福音書の中に綴られた歌そのものです。

 

初めに出てくるのは天使たちの歌声でした。

いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。

 

本日与えられましたルカ19章のみ言葉にも同じような歌声が響いておりました。

主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。

天には平和、いと高きところに栄光。

讃美です。主をお迎えする時の、高らかな喜びの声です。

 

讃美歌をうたうとき、人は、とてもいい気持になります。平和な気持ちになります。

どうしてかと言えば、みんなが同じ方向を向くからです。

讃美歌は、地上の誰かのことをうたっていません。誰かのことをたたえていません。

ただ、私たちをお造りになった神様をたたえます。地上のみんなが、ただ主なる神様をたたえます。

私たちの中には、たしかに、自分がほめられたい、認められたい、という気持ちがあります。でも、本当に気持ちいいのは、この世のだれかをやたらほめまつったり、逆に、だれかをけなしたりすることではなく、みんなで同じ喜びを分かち合う時です。

そのとき、人の心に深い平和が訪れます。

 

主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。

天には平和、いと高きところに栄光。

クリスマスの夜、天使たちが、羊飼いのもとに現われて、歌った歌。それは、いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。でした。

よく似ています。あの天使たちの歌と、今日の弟子たちの歓喜の叫びは似ています。

どちらも、喜びの歌です。歓喜の歌声です。

 

でも、大きな違いがあります。クリスマスの時の天使の歌声は、地には平和でした。この世界、この地上に平和があるように、でした。ところが、ここでは、天には平和です。地上ではありません。あくまで、天における平和、と歌われています。

 

ここから、ひとつ考えたいことがあります。神様に従って生きる時、この世が平和になるわけではないということ。神様を信じて生きたら、そのご褒美に病気が治った、仕事がうまくいった、もういやな思いをすることがなくなった、ということではないということ。

 

先々週、ひとりの姉妹が洗礼を受けました。洗礼を受けて、キリスト者になりました。

さて、それで、何か変わったでしょうか。おそらくそんなに変わらない。寝坊の人は寝坊のまま、忘れん坊の人は忘れん坊のまま、病気の人は病気のまま。

きのうまでと同じように、この日々を生きていきます。見た目には何も変わらない。

 

では、何が変わるか。それは、天には高らかな歌声が今日も響いていることを知ることになります。この地上では何も変わっていない、このわたしの生活も何ら変わっていない。

でも、天で高らかな讃美が響き渡っていることを、知りながら生きることができます。

 

この世が闇に覆われていても、身の回りに絶望的に思える何かが起きても、決して、希望の灯は消えることがないということを知ることであります。なぜなら、天には平和、いと高きところに栄光があるから。世の暗闇を照らす光が、雲の切れ間から差し込んでいるから。

 

ヨハネの黙示録は、最後、ひとつの祈りで閉じられます。主イエスよ、来てください。という祈り。古来、マラナ・タという歌声で歌われてきました。主イエスよ、来てください。

 

それは、昔の人の祈りではありません。私たちも、今ここで、祈ることができます。

そして、イエス様は、その祈りに応えて、来てくださる。わたしはいつもあなたと共にいる、という約束のもと、主は、いつでも来てくださる。あなたのもとへ。

 

でも、よく考えてみる。実は、この祈りをささげる時、私たちは、それが決して明るいものではないことを知ります。主よ、来てください。という祈りを通して、それを祈っている自分に陰があることを知ります。

陰があるから、早く主に来ていただきたいと切望している自分を見ます。

 

私たちの人生は、決して、明るく、輝き続けているわけではありません。

闇があります。悲しみがあります。自分のせいではないのに、なぜ私だけが、と思えるような、不条理なこともあります。

痛みもあります。生きていくのがつらくなるほどの、痛みがあります。

 

そして、罪があります。自分の中に隠された罪があります。

今日の個所を見ると、イエスさまは涙を流されたと書かれています。都エルサレムをご覧になりながら、イエス様は、涙を流されました。

イエス様は、陰をご覧になられました。華やかな都の中にある陰を。涙を流しながら。

 

私たちのうちにも、陰があります。イエス様が涙を流されるほどのものかもしれません。

皆さんには、どんな陰があるでしょうか。

 

昨日、FEBCの方にマイクを向けられ、「先生の証をお願いします。」と頼まれ、緊張しながら、しゃべりました。初めてキリスト教に出会ったときから、牧師になって今に至るまで、20分くらいでしたが、緊張しながらしゃべりました。

ちょうど、おいでになった櫻井さんに、いやあ、いささか外行きの証をしちゃいました、もうあまり人に宣伝したくないです、なんて立ち話をしたくらいです。

 

実は、ひと通りしゃべったあと、インタビュアーの方が、「たとえば、先生の歩んでこられた日々の中に、陰の部分があって、そこに光が差し込まれたとか、そういうところを御紹介いただけないでしょうか」と勧められました。

 

たいせつなことを言ってくださったと思いました。いささか外行きの証をしました、と申し上げたのはそこでして、日本中のリスナーさんたちが聞いているのだ、と思うと、緊張していたせいもあり、すこしきれいな話が多くなりました。

 

そこで思い起こしたのが、わたしが洗礼を受けるきっかけになった出来事でした。

まだ大学生だった私はある夜、祈っておりました。まだ洗礼を受けておりませんでしたが、ひとりで祈っておりました。「神様、あなたがいらっしゃるなら、声を聞かせてください」と祈っておりました。必死で祈りました。どれほどの時間がたったか知りません。でも、一生懸命祈っていたら、「おまえはうそつきだ」という声が聞こえました。

 

それは、聞こえたような気がしたものなのかもしれません。

でも、わたしには十分でした。別に、どこかで、たいそう人に迷惑をかける嘘をついたというわけではないつもりです。

でも、その言葉は、ずばりとわたしの胸に突き刺さりました。それがきっかけで、わたしは洗礼を受ける決意をしました。

 

収録が終わって、インタビュアーの方に、「実は、この話、わたしはあまりしたことがありません、あまりしたくないのです」と言いました。なぜなら、ある種の誤解を生むかもしれないからです。特殊な経験です。このような経験談をして、それならば、だれもが同じ経験をできるのか、と言えば、きっとそうではないでしょう。

 

ただ、しかし、そういう特殊な経験であることは別にして、わたしは、その出来事から示されたことは、きちんと証したい。

つまり、神様は何でもご存じということです。私たちが何を隠そうとしても、人の目には見えないようにしている陰の部分があるとしても、神様は御存じということです。

 

そこで、屈服する。このお方の前に、屈服する。栄光を自分に、あるいはこの世のどこかに求めるのではなく、ただ、天に光があることを知る。

この身はきれいではありません。聖書が教える通り、私たちは、生まれながらに罪深いのです。みんなです。罪を犯さず生きていける人はいません。

 

でも、そうであっても、いや、そうであるからこそ、このお方が来られました。

決して平和のないこの地上に、また、決して正しく生きることのできない私のために、あなたのために、このお方は来られました。

天の平和をほっぽり投げて、すべての栄光をかなぐり捨てて、おいでくださった。あなたを救うために。このわたしを救うために。それが、神の御子イエス・キリストなのです。

 

あの日、イエス様は、エルサレムに来られました。平和を知らぬ、罪に満ちた町へ。

その瞳から涙がこぼれおちるほどの罪でした。その町を救うために、主は来られました。

 

このお方は、あの日、天から来られ、馬小屋でお生まれになりました。世の闇を照らすためでした。たとえ、世が闇を好むとしても、このお方は、光となって世に来られました。

 

そしてこのお方は、今あなたのもとに来られます。あなたの中にある闇を照らすために、あなたの光となるために、あなたのもとに来られます。あなたを愛しておられるからです。

 

世は闇に覆われることがあります。私たちの日々の中には、出口の見当たらないトンネルの中にいるような時が来ます。

 

でも、天には光がある。天には栄光がある。天には讃美の歌声がある。

その光を携えて、主は来られました。子ろばにまたがり、柔和なお姿で、来られました。

 

あの日、弟子たちは、このお方を迎えました。讃美を奏でつつ、お迎えしました。

今、私たちも、歌いつつ、このお方をお迎えしたいと思います。

黙示録の最後の祈りは、主よ、来てくださいであります。そして、黙示録の最後の約束は、然り、わたしはすぐに来る。であります。主が、皆さんのもとにすぐに来られますように。

 

                               2010328日 礼拝にて