私は虫である  

 

 “夢中になっている“  全てを忘れ、時には食事すら忘れて一事に没頭している姿に

出会うとき、人は感動の渦に巻き込まれしばし、その人と時間や価値観を共有することが

ある。

仕事でも、学問でも、スポーツでも、趣味であっても自分の損得とは無関係に、ただひた

すらに我を忘れ、無心に打ち込んでいるそのこと自体が美しく、生きていることそのもの

のように光り輝く。

夢中になっている本人は他人がどんな目で見ているか、そんなことはお構いなしである。

 

 一人の老人が住宅街の道路にうつ伏せになり、寝転んでいる。

帽子を被り、顔は地面にまるで張り付くようにして、何かをじっと見つめている。

そのままの姿で1時間でも2時間でもいるため、時には老人の行き倒れと間違えられた、

とナレーターが愛おしげに語っている。

地面に這いまわる昆虫を見つけ、昆虫の観察に心を奪われ、虫を見つめ続けていたのであ

る。

熊田千佳慕、絵本画家、国際的評価の高い、昆虫の細密画家の80歳になったころの姿で

ある。

 

 100年、農家の納屋を改造したという借家は、草が生い繁り、木がひっそりと立ってい

る。夏、夜更けに老夫婦が庭先で何かを見つめていた。黙って何時間も二人きりで座って

いる。

じっと見つめている先は蝉の羽化である。ようやく殻から出た蝉にひそやかな声が聞こえ

る。

「やっとでたね」 「そうですね、出ましたね」

限りなく優しげに、たったこれだけの会話が聞える。

羽化したばかりの、羽がまだ小さく白い蝉の姿は普段決して見ることができない。

まるで神秘に包まれているかのように神々しく、かすかに震えている。


 絵本画家、熊田千佳慕の作品は、「見て、見つめて、見極める」この徹底した観察姿勢

から生まれている。

ファーブルの昆虫記を絵本で、と目標を立てたのが60歳を過ぎてからだという。

全部で150枚、10数年でやっと45枚ほどが書けた。

とにかく絵を描き始めると時間も忘れ、食事も忘れ、ひたすらに描きつづける。

10数時間、座り続けて絵に没頭する。

昆虫の羽1枚描くことに1ヶ月も要する時もあるという。

1枚の絵におおよそ2ヶ月の時間を必要するというが、出来上がった絵は精緻を極め、ま

るで別世界を出現させ、見る者誰にも感動を与えてくれる。


 生活はびっくりするほど貧しい。

ボローニャ国際絵本原画展で日本人として初めて入選し、しかも2回も入選し、プチ・フ

ァーブルと称賛され、絵の値段も高いがその制作の遅さと、枚数の少なさで極めて貧しい

生活を強いられている。

赤茶けたトタン屋根の平屋建ての小さな自宅には、風呂もなく銭湯通い、という信じられ

ないような生活に甘んじている。が、全くそんなことは意に介さず、絵本の絵を描くこと

にだけ集中する。


 ただ、自分の信ずる道を黙々と歩んでいるその姿に憧れと、眩しさと、感動がひたひた

と押し寄せる。

“人間ってこんなにも美しく生きられるものなのか”

誰の胸にも幸せ感が一杯になり、千佳慕の絵にグイグイとひきよせられる。

世の中の汚辱にまみれていない、と思うようなその澄んだ瞳、少年のような笑顔、まっす

ぐな純粋な生き方が、掛け替えもなく貴重なものがここにあるよ、と教えてくれる。

無欲に生きる。

何も欲しがらず、何も所有せず、肩書きも、称賛も求めず、好きな虫たちの世界に浸り、

忠実に描くことだけを求める。

誰も傷つけず、自分の世界を作り、語ることもしない。

 
 私たちは、激しい競争社会に身を置き、他人の目を常に意識し、良い人でいようと言葉

を選び、物質的な満足を満たそうと努力し続けてきた。

それが現代の幸せだと教え込まれ信じ切っていた。

別な生き方、幸せがあるよ、人間は一度きりの人生を心の豊かさだけを求め続けることが

できるんだよ。

そんなふうに囁いているように思えてならない。

 

 好きな絵を選ぶとしたらどれを選びますか?

そう質問された時、たった1枚を選ぶとしたら「天敵」という絵であるといって、次のよ

うに語った。

“この絵は、ガマガエルに食べられそうになったオサムシを描いたもの。描いているうち

にどうしてもそのオサムシを助けてあげたくなったのです。私はとっさに、ガマガエルの

視線をそらすために、
1匹のミツバチを描き入れました。

「私は虫であり、虫はわたしである。」と悟った瞬間でありました。

以来、自然はわたしのためにあり、わたしは自然のためにある、ということをつくづく実

感し、この世界を絵で描きつづけていこうと思えるようになったのです。“

 

 2009年8月13日、98歳の現役最高齢の画家として絵筆を握りつづけ、昆虫を描きつづけ

亡くなった。虫のように何も求めず、美しさをひそやかに自然に醸しだしながら。

 
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