禅僧と修道女:最も貧しい人々につかえて

 

  
坐禅というと、なんとなく達磨大師を思い出す。刷り込み現象かも知れない。

達磨さんは一昔前、縁日の露店で必ずと言ってよいほどに売られていた。顔は墨で太く大

きく、単純な線で描かれ、赤い袈裟を着て、起き上がりこぼしのかたちをしていた。目は

大きな真ん丸で、黒目は書きいれてなく、白いままだつた。最初から片目だけが描き入れ

られたものもあったが、多くは、両目とも書き入れてないもばかりであった。

縁起もので、願い事がかなったときに自分で目を書き入れるものだ、と教わった。

達磨大師は中国で活躍した禅宗の始祖で、9年もの間、壁に向かって坐りつづけ、そ

の為
に足がなえたという。達磨さんの人形に足がないのは、修行の厳しさを今に伝え

ているの
かもしれない


 日本にある禅宗は、黄檗宗、臨済宗、曹洞宗の3派だと聞く。ほとんど仏教に関する

知識
もなく、僧侶の名前すらしらない。しかし、ひょんなことから、一人の禅僧につ

いて興味
を持った。内山興正師、曹洞宗の禅僧である。家族を持たず、寺も持たず、自

己とは何か、を自らに
問い続け、坐禅に明け、坐禅に暮れて一生を終えた。

平成
10年、88歳であった。

 仏教徒としては、変わった経歴を持つ。

裕福な家に生まれ、早稲田大学西洋哲学科、大学院を卒業。カトリックの神学校教師とな

る。結婚をするが、すぐに奥さんを病気で失い、父親の事業も上手くゆかなくなり実家の

没落にあう。

 

 “人生とは何か”、誰もが迷い、悩みもする答えの出ない問いに、人はたびたび出会うこ

とがある
繊細な神経を持ち、深く真理を求め、真正面から人生を受け止めようとする人

にとっては、尚更、その悩みは深かったかもしれない。内山興正さんもそうだった。

そして、真理を宗教に求めようとした。しかし、神学校の教師であるにもかかわらず、キ

リスト教にはどうしてもなじめなかった。神に頼るという、他力本願でなく、自力本願で

真理を見つける禅宗こそ生きる道のような気がした。


それまでは、仏教を学んだわけでもなく、深く知っているわけでもなかった。

だが、自分自身を乞食坊主と呼び、寺も持たず、放浪する禅僧、澤木興道師を見つけ出し

師と仰ぎ、禅宗の道に飛び込んだのは30歳そこそこであった。

  只管打坐(しかんたざ)とは、禅の用語で、ただただ坐り続けるということだという。

難しいことは判らないが、何も考えず、黙って、半眼で、微動だにせず、坐り続ける。

何日も、何カ月も、何年も、何十年も坐りつづける。

  するとある時、悟りが開けるいう。
  
悟りが得られる瞬間とは、そのときに、今まで曇っていた空が、急に晴れ、見事な青空が

出現したり、赤信号がぱっと青信号にかわり、止まっていた車が一斉に動き出す

ような劇的な変化がおきるわけではないという。
少しずつ心の中に、変化が起き、後になって

「そういえば、坐禅を組んでいたあの時に、こんなふうに、いままでと、ちょっと違う安心感

があった」 「あの時を契機に、人の世が少し違う形で見えだした」というように、ああ、あ

れが悟った時だったのだと、後になって気づくものであるという。悟りとはどんな境地なのか

残念ながら文字になって残っているものは何もない。不立文字と呼んで、文字にあらわすこと

のできない真理で、坐禅により、ただ坐る、只管打坐により、会得することしかできないもの

だという。



 禅宗は、厳しい修行がその生活の全てを覆い尽くす。しかし、ただ坐禅を組むことだけ
に終

始するわけではない。日々の生活そのものにおいて仏の教えを守り、実践をする。

慈悲の心を仏教徒として守って行く、このことについて、内山興正師はこんなことをいっ

ている。

「お寺にいると、食べ物もなく困っている人たちが食を求めて訪ねてくるときがある。私たち

はいつもその貧しい人たちと同じ心、同じ立場で心が分かち合えるようにしていたい。

だから、最も貧しい人と心を合わせるために、いつも最も貧しい人と同じような食事をしてい

る。一汁一菜が基本の僧の食事も、時に、一汁だけや一菜だけの時もある。

 ある時、自分達も貧しいが、自分達以上に食事に困った人に、自分たちと同じ食べ物を施し

た。施しを受けたその人は、
“私たちのほうがこれよりも、よほど、よい食事をしています”

といった。
その言葉が嬉しかった。困っている人々と同じ心に自分たちがなれた、ということ

を、教えてもらったからだ。」

 

  “貧しい人々につかえる”、この言葉はあまりにも有名なもう一人の人を思い出させる。

カトリックのシスターでノーベル平和賞受賞者のマザーテレサである。アルバニア人で、イン

ド、カルカッタのスラム街に住み、カトリック女子修道会である「神の愛の宣教者会」を創立

し、貧しい人たちの為にその生涯を捧げた人である。

この修道会の目的は次のように書かれていた。

「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべ

ての人、愛されていない人、だれからも世話されない人のために働くこと」

 さらに、路上でだれにもみとられず、襤褸布のように死んでゆく人たちを収容し、その最後

の時を、人間らしく迎えられるようにと、ホスピス「死にゆく人々の家」をも開設した。

ヒンズー教の廃寺を借り受けたが、多くの妨害や抵抗にもあった。が、マザーテレサは決して

くじけなかった。

 修道会のシスターたちは終生をキリストと共に歩む為に、シスターとなる請願式を行う。

「神の愛の宣教者会」のシスターとなるためにマザーテレサと修道女は、請願のおり次のよう

に祈るという。

“最も貧しい人たちのために生涯を捧げること、最も貧しい人と共に歩むこと”――を。


請願したシスターたちの私物がそのすべてを表わしている。

シスターのこの世での私物とは、たった2枚の修道服(サリー)と洗濯をするバケツだけだ、

という。

 

 貧しい人たちへの私たち、一人ひとりの関わり方はどうあるべきであろう。

かって、マザーテレサが訪日し、話をされたがことあった。

その時に、日本人に向かって、次のように訴えた。

 「日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべき

です。愛はまず、手じかなところから、はじまります。」

 

  1910年生まれ、マザーテレサと、内山興正師は同じ年に生まれた。

同じように、教師を経て、その職を捨て、信仰に従い、自分の信ずる道をただひたすらにある

きつづけた。

1997年、87歳でマザーテレサが死去。翌年内山興正師がこの世を去った。

宗教が異なり、その生き方も違ったが、ともに最も貧しい人々に心を寄せ、最も貧しい人々に

つかえる人生であった。

 




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