何故生きるのか            

 私達はいつも、誰もが自分にむかって、そっと、そしてただ人知れず、黙って、あのこ

とを、問いつづけているのではないだろうか。

そう、『人生とは何か、なぜ生きているのか、人間とはどこから来て、どこへ行く存在

なのかと、人は一体何者なのかと。』

『そもそも自分とは何者なのだろうか。』――と

 

 この世に生を受け、やがて跡形もなく滅び、消えゆく存在。

おびただしい人間が生まれ、それぞれに二つとないドラマを作り、笑いと涙を、喜びと

悲しみを、そして苦悩を背負い生涯を終えてゆく。

果たしてそこに、どのような意味があるというのだろうか。

ただ、果てしない永遠の営みのなかのほんの一瞬。そこに陽炎のように存在する個々人

とは、いったい何であろうか。―――と。

さまざまな問いを、さまざまな形で、密やかに、孤独の中で、ただ一人自らに問う。

現役を引退し時間に余裕が生まれ、頻繁に心の中に声が聞こえてくる。

誰に向って質問するわけでもない。誰かがこの問いに答えてくれるわけでもない。

が、しかし問わずにはいられないのが、人間に与えられている宿命かも知れない。

 

 そもそも、神はおられるのか、根源的な問いも時に襲ってくる。

神を信じ、神にすべてを委ね、生き、そして死んでいったあまたの人々がいる。

一方、神を知らずに生涯を終へ、また神は不在だと否定して生き、そして幸せそうに、

この世を去った人々もいる。

神の存在とは、普遍的なものなのか、それとも特定的な人々のみに許された限定的なも

のであろうか。

深く考え込むと、まるで、迷路の中に落ち込んだように、出口が見えなくなる。

すると、永遠すらも不可思議なもののように思えてくる。

地球があり、銀河系宇宙があり、その銀河系宇宙を包みこむ大宇宙が存在するといわれ

ている。その大宇宙すら、想像すらできない無限大の中の、小さな小さな存在かもしれ

ない。

私達の知っている永遠なぞ、この広大無辺な宇宙の存在から比べたらほんの一瞬にすぎ

ないかもかもしれないのだ。

そう考えると、やっぱりこの広大無辺の宇宙の中でほんの一瞬生きてゆく人間に意味は

どこにあるのだろうか。

 

 V、E,フランクル。

2次世界大戦でのユダヤ人強制収容所から奇跡の生還を果たし、収容所の体験を、世界

的に有名になった本「夜と霧」で表わしたオーストラリアの精神科医がいる。

多くの著作があるが、「それでも人生にイエスと言う」との表題の本は、人生に追い詰

められた時、息子が送ってくれた一冊であり、今も大きな支えとなっている。

 

〈生きる意味とは何か。〉この問いにフランクルは、こう答えている。

 

『ある時に、生きることに疲れた二人の人がたまたま同時に私の前に座っていました。

それは、男性と女性でした。二人は声を揃えて言いました。

自分の人生には意味がない。「人生にはもう何も期待できないから」 二人の言うこと

はある意味で正しかったのです。けれども、二人のほうには期待するものが何もなくて

も二人をまっているものがあることがわかりました。

その男性を待っていたものは未完のままになっている、学問上の著作です。

その、女性を待っているものは子供です 

――――中略―――――           

コペルニクス的転換を遂行することでした。

―――中略――――――

「私は人生にまだ何を期待できるかと、問うことではありません」

今では、もう「人生は私に何を期待しているか」と、問うだけです。

人生のどのような仕事が私をまっているかと、問うだけなのです。

ここでおわかりいただけたでしょう。

私たちが、「生きる意味があるか」と問うのははじめから誤っているのです。

つまり、私たちは生きる意味を問うてはならないのです。

人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているからです。

私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生が絶えずその時に出す問いに答え

なければならない存在なのです。

生きること自体問われていることにほかなりません。』
    
          (それでも人生に、イエスという)

 

 フランクルは敬虔なユダヤ教徒である。彼の神に対する信仰はどんなであったろうか。

諸富祥彦氏の“フランクリン心理学入門、どんな時にも人生にはいみがある”によれば

次のような記述がある。

『もっとも、フランクリンは神の存在そのものを直接に証明しようとはしません。

「神の存在は、動物の痕跡を発見するのと同じようなやり方では、証明できません。神

は死んではいません。ただ、神はその痕跡を発見することでそれが証明できるような存

在ではないのです。神は現存します」

むしろ、フランクリンは、神は私たち人間には見ることも、知ることもできず、したが

って言葉で言い表すことのできない存在であることを強調します。神の絶対的超越性、

神と人間との絶対的差異を説くのです』

 

 フランクリンは真正面から、「人は何のために生きるのか」について、答えている。

「人はそれについて、質問をするのは間違いであって、人がそれに対して答えてゆく存

在に創られているのだと」

「問うのではなく、あなたは問われている存在なのだと」

日々の、一瞬、一瞬に応答すべく創られた存在なのだと。

アウシュビッツ、ダッハウの強制収容所から、奇跡的な生還を遂げたフランクリンは、

次のような、人間とはどうあるべきか、についての言葉も残している。

 

『最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか【だけ】だったの


です』

 

 私たちとはどんな人間なのか。フランクリンが言うように、問いは自分に向かって出さ

れ、答えは自分で出さなければならない存在かもしれない



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