紫の履歴書


「水にすむものは、陸を這うものを厭い、陸にすむものは空を飛ぶものを厭
空にすむものは水に泳ぐものを厭う。」
自分と異質なものを排除し、常に同質なものと寄り添い、群れ、安全を確保しようとうごめく。
これは、人間に限らずすべての生き物の普遍的な行動である。

 蝙蝠は鳥にも、獣にもなれず、洞窟にすみ、暗くなってから飛ぶ。
人間社会は、より複雑だ。
ほんの少しの違いを見つけて、差別を繰り返し、自分を安全な部類に位置付け安住しようとする。
人種差別から始まって部族、宗教、階級、職業、身分、学歴、有とあらゆるものの中で違いを見つけ、安全の側に立つために、非難、排斥を本能的に行う。
大衆の中の一人となることで得る安心は、時に生きる意味さえも与える。

 「紫の履歴書」、美輪明宏さんの排除された者の叫びが聞こえる本である。
ゲイボーイとか、オカマ、と呼ぶものに蔑みや、嫌味さえ持って一線を画そうとする私たちに、人間として真実に生きようとする、赤裸々な告白が綴られている。

 1935年長崎に生まれる。料亭やカフェを経営する裕福な家庭は遊郭のそばにあり、早くから耽美な生活に染まっていた。
実母の死、第二、第三の母との関係、第二次大戦による被爆、家の没落、片手に余る大勢の弟妹、父との断絶、悲惨な東京での生活、弟たちを大学に進学させるための苦闘、恋の数々、歌手としての栄光と挫折、宗教との出会い、の33歳までの履歴書である。
大衆に属さず、孤高を貫こうとした若き日の姿がそこにはある。
当時はまだ美輪明宏とは言わず、丸山明宏の名前の時代だった。
生きるためには何でもやった。批判も真正面から受け止めた。
堂々と男性との数知れない恋をつづった。
歌への限りない情熱に生きた。
自らの生き方について次のように語っている。

『なあに、明日は明日の風が吹くっていうけれど、明日の朝になりゃ、そのまま眼が覚めないことも、あるかもしれないじゃない?僕はね、何度も死にぞこなっている人間よ。今、生きているのは、おマケで生きているのさ。
いつ、死んでも悔いのないように毎日を送ってゆくだけよ。
名誉とか、金とか言っている人もいるけど、そんなもん、墓場に持って行けるわけじゃなし、人に迷惑さえかけなければ、たとえ貧しくたって何だって自分のやりたいことをやって行ければ、それで御の字よ。
人間は一秒、一秒、死んでいっているのよ。
今何かやらなきゃ、命がもったいないじゃないのさ』

 「紫の履歴書」美輪明宏著、どこか秘密めいた著者のペンに怪しげな匂いを捜しだそうとしたりした。
ところで、本は人にどんな心を運んでくるのだろうか。
新しい本を手にする時、人は様々なおもいを抱きながらそっとページをめくるだろう。
まるで初めての人に出会うかのように、おずおずと、はにかみながら活字と向かい合ったり、長年の友人と久しぶりに話を交わすように、一気に思いのたけを、ぶつけたりしながら。
作家で選んでみたり、ふと見た背表紙の文字に心惹かれたりしながら、手にした本への、大きく膨らんだ期待感をそっと抑えたりする。

 「紫の履歴書」、匂い立つような、高貴な孤高さを醸し出す背表紙の5文字に作者はどんな意味を込めたのだろうか。想像が膨らむ。
さほど気にも留めなかった題名が、深い意味を持つのかもしれない。
そう思い始めると本の中身もさることながら、文字と文字の間に何か隠されていやしないかと、妙に気になり始める。半分ほど読み進むと、〈宝物さがし〉のように見えない秘密を探し始めた。
途中で出てきた〈桐壺の更衣、紫の上〉という、たったこれだけの言葉がぐるぐると頭の中を回りだす。
「源氏物語」、紫式部、中身はほとんど知らない平安の優雅な世界がかってに想像力をかきたてる。
瀬戸内寂聴さんが源氏物語を現代語で書いていた。それくらいの知識しか持ち合わせていない。

 1000年もの昔、しかも女性が平仮名で小説を日本で初めて書き、平安貴族の圧倒的な心をつかみ、絵巻物となり、古典文学の傑作として今もなお、金字塔として輝く「源氏物語」。
主人公は言わずと知れた〈光源氏〉。父は架空の天皇である桐壺帝、母が側室桐壺の更衣。側室の子、として生まれた為、早くから、皇籍を離脱し臣下となり源氏を名乗る。輝くばかりの美貌であったために〈光る源氏〉と称され、多くの女性に愛された。
当時の平安貴族の恋愛観は今の時代の常識がまったく通用しないほど、開放的であり、自由であった。
浮名を流す、それは男にとっても女にとっても、さほど、恥ずかしいことでもなければ、倫理観に束縛された、大変な窮屈なことでもなかった。
空蝉とか、夕顔とか、聞いたことがあるな、という登場人物の名は愛人たちの名前であり、〈紫の上〉は寵愛を受けた正室であった。

 丸山明宏さんも恋多き人であった。
とっかえ、ひっかえ、時には二人同時に愛の対象を抱えていた。
自伝は恋の遍歴書といってもよい。
「紫の履歴書」は、源氏物語の次から次へと語られる、恋の遍歴を自己に重ね合わせた物語であるように思えた。
しかし、もしかしたら〈光源氏〉に自己を投影していたのでは、とも考えられる。
丸山明宏さんも『誰も、彼も振りむくような美少年』と自らを語っている。
光源氏もまた、輝くばかりの美しい人として生まれ、育ち波乱の人生を生きてきた。
この浮沈に翻弄される光源氏と自分の激しい浮き沈みを、重ねあわせたかったのかもしれないのだ。

 紫とは日本においては最も高貴な色である。
自分自身の心だけはどんなに翻弄されようとも、恥じることのないようにしていたい。毅然としていたい。
そんなふうに読んでいた。
「自分に正直に生きよう。人に嗤われようと、蔑まれようと、貧しかろうと、一向に構わない。シスターボーイが何だというのだ。派手な衣装が可笑しいというなら、笑うだけ笑うがいいさ。私には歌がある。大好きなシャンソンがある。見栄も、外聞も捨てた裸になった自分がいる。」そう必死に叫んでいる丸山明宏さんという、33年間の軌跡を見ているような気がした。

 イギリスの諺でしばしば引用される次のような言葉がある。
『一日だけ幸せでいたいなら、床屋にゆけ
一週間だけ幸せでいたいなら、馬を買え
一か月だけ幸せでいたいなら、結婚しろ
一年だけ幸せでいたいなら家を、建てなさい
しかし、一生幸せでいたいなら、正直でいなさい。』

 正直とは私たちにとって、しばしば〈世間に対して正直〉、と捉える事が多い。
自分の行いや、言葉は、世間に対しても恥ずかしくないし、誰の目からもみても正しく映るだろう。
だからこそ、自分自身の生き方を十分納得させ、胸を張り、正直であると、こころからいえる。
つまり、世間から爪はじきされない、正直な生き方、という物差しを知らず知らずのうちにもってきたのである。
そこには、〈他人の目〉という判断基準が、まるで裁判官のように働いている。
そうではなく、〈物差しは自分自身〉である。
世間という眼は、見せかけにすぎない。
自分自身に堂々と正直になりなさい、他人の言うこと、他人の目で自分をみることはやめなさい、ということが〈真に正直な生き方〉ではないだろうか。

 「紫の履歴書」は他人の目という常識をはぎ取った、〈自分自身に対する本当の、正直〉さ、に素直にならなければ、と改めて気づかせてくれる。

好奇の目でしか見られなかった人、決して世間というものに受け入れられなかった人、の若い日の、秘められた思いに出会った。








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