とらわれない心

 

島田市の山奥にある曹洞宗智満寺。

その坐禅をするお堂の入り口に〈額〉がかかっている。

草書体で達筆のため、残念ながら読めず丁度居合わせた修行僧らしき方にきいてみた。

その僧も何と書いてあるのか判らず、わざわざ関係者に聞きにいってくれた。

「行雲流水」とかいてある、という。

もう、20年も前の事だったろうか。今でも清々しく思い出される。

雲がゆっくりと行き、水がただ下流にむかって自然体で流れてゆく。

何物にも束縛されず、ただあるがまま、そんな意味の説明をしてくれたように記憶して

いる。

禅の境地を表わしている、そんな開放された心地になったような気持ちだった。

 

徒然草の吉田兼好、西行と名を改めた佐藤義清たちが何を考え武士を捨て出家までした

のか、出家してもとめたものはなんだったのか。

無所有が生み出す無我の境地なのだろうか。

あるがまま、ただそのままを、ただそのままに無心で受け入れる心。

行雲流水とは、そんな境地を言うのであろうか。

富も名誉もすべて捨て、清貧に生きるのが出家した僧侶たちのこの世における生き方だ

と、勝手に思い込んでいる。

そんな生き方に誰しも共感をし、憧れをさえ持つのかもしれないが、なかなかそこまで

踏み切れない。

凡人と、非凡な人の生き方が大きく異なるのは、この辺に差があるのかもしれない。

 

つい最近読んだ本がある。

「世界の宗教、どの教えが優れているか」(シャフィック・ケシャブジー)であるが、

ユダヤ教、イスラム教、ヒンヅー教、キリスト教、そして無神論者まで一堂に会して、

論じ合うという、まことに面白い本である。

 

この本によれば、日本に入ってきた仏教は、大乗仏教でその教義のうち重要なのは二つ

であるという。

一つは、この世の現象はすべて見かけのものでありすべては<空>だとする思想。

二つ目は、祈りにより人間を解放する理想像<菩薩>への信仰。

そう、書いてあった。

 

この世のすべてのことは見かけのものであり、すべては<空>であり、むなしいとすれ

ば<空>をいくら追いかけても満たされることは決してあり得ないことになる。

人間は限りない欲に取りつかれた生き物である。

なかでも、物欲、名誉欲などは、他人を蹴落とし、我一人尊しとする、激しい競争を生

みだす。

これらの欲望も、そしてその欲望を持つ人間でさえこの世においては、全て仮の見せか

けのものであり、意味を持たない<空>であるという。

それゆえに、また、一切の所有はこの世の夢のようにはかないものであり、束の間の出

来事で人に安心や満足を与えることが決してない、と教えている。

むしろ、むなしいものを求めず人間を欲から解放する理想像に向かって修行することこ

そ、仏の教えであり、出家したものの生きる道なのだと説いている。

 

松野宗純と言う禅僧がいる。

世界的な石油会社の副社長で定年退職した後、僧侶となり本まで出版した人である。

「人生は雨の日の托鉢 定年からの静かなる挑戦」と言う本を読んだのもかれこれ

15
、6年くらい前のことである。

宗純と言うのは一休禅師と同じ名前でものすごい人の名前をいただいたものだ、という

ようなことを書いていた。

あれから長い月日が流れた。いま、金沢の武生で住職になり初心貫徹をされている。

会社人生が終了したあとをどうするか、定年後の人生に迷う人が多いのではと思うが、

松野禅師の生き方には素直に頭がさがる。見事な転身である。

 

すべてがむなしいと悟り、無我の境地を求め、とらわれない心で生きたとすると、どん

なに素敵なのだろう。非凡な人にしか許されていない厳しい道なのかもしれない。

さて、そうすると、凡人にできることはなんであろうか。

「自分を求めない。欲しない。物を所有しない」、そう努力することができるかもしれ

ない。

一切は借り物である。

何を飲もうか、何を食べようか、と悩むことをやめることも、訓練と努力かもしれない。

自分がなければ他人と比べることもなくなる。

口から出るグチも批判も溜息も、自分では気がつかない、人間の悪臭である。

精一杯、清い息だけ出るように努力も必要であろう。

 

行雲流水の字をじっとみつめたら、「雲水が流れ行く」と読めた。

あの空を大地を、ただ風に吹かれるままに、流れゆくままにこの身を委ねる心を持ち、

そんな生き方ができたら素晴らしいと思う。

飄々と生きられたら、一切を持たず全てを空として見つめ、とらわれない心で出家した

僧のようになれたらと願う人も多いのではないか。

 

とらわれない心を、流れる雲に、水に託してみよう。

自然のままに身をゆだねて。

 
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