願わくは、花の下にて

 鎌倉時代はまだ、戦乱の世であった。
幕府の武士と言えば、いまの公務員に当たる安定した生活が保障される特権階級である。そのころ妻子もいた佐藤義清はわずか23歳の時に、家を捨て、家族を捨て、武士の身分を捨て、何も持たずに無一物となって出家した。
僧となり"西行“と名乗った。
今から800年ほど前のことである。
何故武士を捨て、僧となったのか、何を求めていたのか。
妻子を捨ててまで僧となって自分だけ、が求めなければならない使命感のようなものに縛られていたのであろうか。
恵まれていた武士の地位を捨て、清貧な生活にわずか23歳で生きなおすことを選んだ西行とはどんな人だろうか。
なんとなく、その生き方に惹かれた。

 この西行のことを学校で習ったのは、西行の歌一首と、武士を捨て僧となる時、家族との別れの場面であった。
別れの場面は絵巻物に描かれていた。
絵巻物にのなかには、義清、妻、そして幼い娘がいた。
武家屋敷の廊下が描かれ武士の衣服を着た義清が片足を大きく上げ、幼い娘を廊下からけり落とそうとする場面であった。
壮絶な俗世間との決別を意味していた。
何故、何のために、その思いは消えることはなかった。
その後西行がどんな人生を送ったのか、何を残し、どんな生き方を伝えたのか、なにもしらない。
知る機会もなければ、積極的に知ろうとすることもついぞないままに時を重ねてしまった。
残された家族はどんな人生を送ったのであろうか、幸せな生涯を送ることができたであろうか、想いは遠く800年近くにもおよぶであろう昔に駆け巡ってゆく。


“ねがわくは はなのしたにてはるしなむ そのきさらぎの もちづきのころ”
                       
(西行法師)

 晩年歌ったといわれるその一首が何十年も心に、妙にひっかかった。
春に死にたい、と言いながら、如月のころ、と言うのも何となく、奇異な感じであった。
2月はまだ寒い。花の下と言う季節ではないと思っていた。
そうだ、当時は旧暦を使っていたのだ。
今に合わせれば3月なのだから、と納得したのはずっと後からのことだった。
花もそうだ。
春と言えば桜だと頭から思い込んでいたが3月ではまだ桜花の下と言うには少し早い。
そうだ、桜でなく梅ではないか、とおもったのも、ずっと後からのことだった。

 西行が本人の望みどおり春のころ、この世を去ったのは73歳の時であったという。
梅の花が咲くころ、木の下で静かに息を引き取るなんて、なんと達観した心境であろうか。

 現代ではどんな生き方になるのだろうか。
種田山頭火は出家して自由律の俳句三昧に生きた。
同じように妻も子も捨てての出家だったが状況は大きく異なる。
自ら選んで出家した西行と、波乱の人生において出家するしか生きる方法がなくなってしまった山頭火では、僧として生きる心構えからして全く異なっていたであろう。
今の時代、平安な人生を否定し、何もかも捨てて、無一物の中で真実を見出そうとする人生を選びとれる人が、自分自身を含めてどのくらいいるのであろうか。

 豊かさ、を幸せだと繰り返し、繰り返し教え込まれ、他人に勝つことが人生の勝利者であり、より多く、もっと多く物を所有ことこそ成功者だという価値観にどっぷりつかっている私達。
この世の一切は仮の姿であり、借りものにすぎないと達観し、何も持たず、この世の常識をすべて捨て、家族とすら別れ、家族の生活すら省みることなく、自己の心の求めるままに放浪の旅を友とする。
そんな、生涯を孤独のうちに生きられるであろうか。

「たべるぶんは いただいた 雨となり」(山頭火)

墨染の衣一枚で、毎日毎日托鉢で飢えをしのぐ日々が続く。
托鉢でいただいたお米を、木賃宿でひっそりと炊きふと外を見れば雨がふっている。
今日一日も終わろうとする。
昨日も同じだった。
そして、明日も同じようにただ、時が流れてゆくだろう。
自分は、"ただそこにある""ただあるだけの存在“ 、山頭火のそんな人生が見えてくるような幻想に駆られる。

 願わくは――――西行、山頭火の人生を深く知り、自らもまた身を投じてみたいという誘惑に多くの人が、かられるのではないか。
種田山頭火は1,940年に、僅か56歳の生涯を閉じている。
まさに波乱万丈の人生を送ってこの世を去った。
佐藤義清、後の西行はたった23歳にて安定した生活と決別した。

 第二の人生を迎えても、尚、逡巡が残る凡人には決断の時があるのだろうか。
それとも、夢の世界に身を置いたままなのか。
外は雨が降っている。
暖かな雨が、音もなく、細い細い雨がーーーーーーー。

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