熊田千佳慕の世界

 

ファーブルの昆虫記は断片的に読んだ記憶はあるが、きちんと最初から終わりまで真面目に、科学としてとらえ、興味を持ち、心をワクワクさせながら読むことはなかった。
昆虫が嫌いなわけではない。なんとなく題名を聞いただけで、中身まで知っているような錯覚に陥っていた。
多くの人々はそんな気持ちを抱いているのがふつうなのかもしれない。

だが、昆虫が好きで、ファーブルを先生と呼び、真に虫の世界に生きた人もいる。
“私は虫である”と自分をよぶほどに虫とともに生きた画家、熊田千佳慕、本名熊田五郎はフランスの「ファーブル友の会」会長から“プチ・ファーブル”と呼ばれ称賛され、虫と共に生き、昆虫を描きつづけた稀有な絵本画家であった。

60歳を過ぎてからファーブルの昆虫記を絵で表そうと考え、98歳で亡くなるまで絵筆を握り続けた。
生涯を絵本画家として、無欲に徹し世の称賛や、富、名誉等とは無関係に貧しさの中に身を置いた。
「ファーブル昆虫記の虫たち」は1巻から4巻が、2000年に小学館より刊行され第5巻が2008年に刊行された。細密画家とも呼ばれる作品は精緻を極め、その美しさは類をみない、高い評価を受けている。

熊田千佳慕は、小さな、美しい世界を作り上げ、見る子供たちに感動を与え、その生き方は多くの人々を惹きつける。

「KUMADA CHIKABO‘S LITTEL WORLD」全7巻は1989年、小学館絵画賞を受賞する。千佳慕78歳の時である。

千佳慕は1911年、横浜の歯科医の息子として生まれ、何不自由のない生活の中で東京美術学校、現在の東京芸術大学を卒業、デッサンの会社に勤め写真家、土門拳らと活躍する。
1945年当時の勤務先の日本写真工芸社の女子社員杉浦すぎ子と結婚。結婚8日目の529日に横浜大空襲で被災する。

1945年、終戦とともに優秀なデザイナーであり、編集者であった職を捨て、絵本画家として独立したがその時に次のように言ったという。
「虫のように何も持たずにいきてゆこう」
その言葉通り無心に絵を描く以外の事をせず、ひたすら絵本の世界に浸っていった。
その時から“貧乏生活”が始まった、という。

39歳の時、一読者から改名の勧めの手紙をもらい本名の五郎から千佳慕(ちかぼ)というペンネームをもちいた。
五郎では短命であり、千佳慕にすれば助かり、しかも三年以内に財をなすというものであったという。
千人の佳人(美しい女のひと)に慕われる、という変わった名前の裏にはこんなエピソードもあったのである。

1991年、80歳になった絵本画家、熊田千佳慕の世界がNHKテレビのドキュメンタリ番組「プライム10−私は虫である」が放映され、20098月、98歳での死去を受け、同年10月再編集され放映された。
借家という築100年の農家の納屋を改造した住居は、赤茶けたトタン屋根の小さな平屋で、草が生い茂り、何本かの木が立っていた。

老夫婦二人だけの生活は、ひっそりと、時間が止まったような静けさに満ちていた。
絵本画家になってからの45年の間、ただの一度も外泊したこともなく、外出は銭湯に行くのと、自宅から100m以内の草むらなどへ、昆虫の観察に行くだけだという。
電車に乗ることは年に45回あるだけ。たった1つの趣味はプロ野球をみること。
大の阪神ファンで丸いペン立ては、タイガースグッズであった。

奥さんが足踏みミシンで縫物をしている。奥さんの着るもの、千佳慕さんの下着は全て奥さんの手造りだという。家計を助ける為であろうが不思議な世界に迷い込んだような、純な世界に引き込まれ、我を忘れた。

80歳の千佳慕さんが語っている。
「これからの事を思うと、不安になることも多いのですが、虫のように思い煩うことなく、無心に生きていこうと思っています」

日本人として初めてボローニャ国際絵本原画展で入選し、国際的に評価された絵本画家、熊田千佳慕は原画をどんなに高価で買いたいといわれても決して手放さなかったという。そして、終生貧しさの中でいきた。

1枚の絵を描くのに2ヶ月ほどかかってしまう、という丁寧な仕事ぶりでやっと完成した絵を見つめ、老夫婦がじっと座っている姿が印象的であった。

「やっとできた」部屋の中で千佳慕さんがつぶやく。

「ご苦労様でした」と言って深々と頭を下げ、黙って絵を見つめる妻がそこにいた。

 

権力と富をいち早く、より多く握ったものが勝利者と呼ばれ、誰もがそうなりたいと願い努力をつづける現代社会。全くそんなものに目をくれず、虫に寄り添うように生きた一人の男。人間の本当の幸せを教え、実践し続けた人生に限りない称賛の拍手が起こる。

人間っていいものだ。そんな声が静かに、波のようにひたひたと寄せてくる。

 

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