人間の尊厳

 

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払いえようか」
2000年もの昔、命の言葉として聖書に息をふきこまれた一節である。

 “人の命は地球よりも重い” あらゆる場面で繰り返し、人の口の端にのぼる理想的な言葉、人の命の尊厳を言い表している。
だが現実は、戦争、大量虐殺、殺人、虐待、飢餓、ありとあらゆる人間の命を軽視した行為が絶え間なく歴史の中で暗く、うごめく。
今この時でも、私たちのすぐ隣で、ものすごい規模に膨れあがり、命の軽視が進行している。
あるべき人間の尊厳は遠くに追いやられ、個人の意思は抹殺され、命は勝手気ままにもてあそばれる。
時には命を尊重していると言いながら一つ一つの重い現実をとらえた時、〈人間とは何か〉を考えさせられる巨大な壁の前に立ちすくんでしまうこともある。
また、常にタイトロープの上に立つことのできないのも人間である。
正義、平和、安住、それぞれの理由をつけ,非人間的事柄を、他人ごととして、目をそむけようとする豊かさに囲まれた社会、も厳然として目の前に広がっている。

 「ジョニーは戦場に行った」、半世紀以上前にアメリカで書かれた反戦小説と呼ばれるものである。
映画化もされ衝撃的なそのストーリーは重い課題を残し今も〈人間とは何か〉を問いつづけている。

 『第一次世界大戦。 アメリカも参戦しドイツ軍と戦うためにヨーロッパ戦線へ兵士は出征していった。ごく平凡な一市民であったアメリカ兵、ジョー・ボナムは塹壕の中で砲弾が炸裂し、重傷を負う。
前線の野戦病院で手術を受けるが、眼も鼻も舌も口も耳も、そして手も足も失い、延髄と心臓と性器だけが残った。
肉の塊と化した彼は、どこの誰だとも判らない。
〈姓名不詳、重傷兵第407号〉それが、彼につけられた名前だった。
何故彼を生かしておくのか、軍医長は答える。「もう死者と同じように何も感じない、意識もない男を生かしておくのは、我々が彼から学ぶためだ」と。
そして、407号は軍医長の命令で、人目につかない陸軍病院の倉庫に移し替えられる。

 407号は、外見的には意識がないと見なされていたが、肉の塊となった意識下では人間としての記憶も、思考も立派に残っていた。こどもの頃のこと、出征前のこと、戦争での出来事、今の自分をも。
時間が流れ、ベッドが新しくなり看護婦も変わった。看護婦は花を一輪飾ると407号のために涙を流してくれた。
雪の降る日に彼は自分の胸に看護婦が指で何か書くのを感じた。それは〈メリー・クリスマス〉という文字だった。彼は昔のクリスマスのことを思い出す。
その夜、頭を激しく打ち付ける407号を発見した看護婦は軍医をよぶ。
数日後将校、軍医らが集まり407号をみつめた。
407号は、頭を打ち付け、モールス信号でさけんでいることを将校は見つける。
SOS・・・、SOS・・・、SOS・・・〉
将校が407号の額にモールス信号を送る。
〈君は、何を望むのか・・・・・〉
407号はモールス信号で答える。
〈外に出たい。人々に僕を見せてくれ。出来ないなら殺してくれ〉
事実を知り、愕然とした将校は、一切の他言を禁じた。
皆が部屋を出た後、殺してくれと願う彼に応ずるように、一人残った看護婦は呼吸器管を閉じた。
しかし戻ってきた将校に見つかり再び呼吸器管は開けられ、看護婦は追い出されてしまう。
暗く閉じられた倉庫の中に、いつまでもモールス信号が打ち続けられる。

SOS・・・、SOS・・・、SOS・・・、助けて・・・・〉と。 』

 

 反戦と言うよりも、人間の尊厳とは何なのか、命は何のために守らねばならないものか、を深く問いかけている。
現代の社会にはもっと深刻に、命の問題があふれている。
それは、もしかしたら、明日の自分に投げかけられた問題かもしれないし、いま向き合っている問題かもしれない。
生とは死の裏返しである。
ぎりぎりに行き詰って、生と死の狭間に立たされることがあるのが人間である。

 ある高名な写真家がいた。筑豊のこどもたちを撮り、古寺を撮り、仏像を撮り、奈良室生寺を撮り、その芸術的才能を高く評価された人である。
50才の時に、2度病に倒れ、意識不明が1年続いたという。
誰でも罹りうる病である。生命力が強靭だったからこそ生還したのかもしれない。2度目に倒れて以降、半身不随で車椅子生活となるが、車椅子で、抱えられながら写真を撮り続け、文化勲章を受章した。
3度目に倒れたのは79歳の時だった。そのまま意識を失い、寝たままとなった。
再び意識は戻ることなく寝た切りが続き、11年の長きにわたった。

〈重傷兵第407号〉のように、意識下での判断能力があったかどうかは、誰にもわからない。もし同じ立場に自分が立たされたとしたら、SOS・・・を発信しただろうか。
それとも11年間の生を、強く全うしえただろうか・・・・・・・・・・・・・・。

 難病を抱えた知人がいる。定年より数年若くして退職したとは聞いていた。
早期退職が病のためか、はっきりとは判らないが、しばらくは散歩する姿を見かけたこともあった。
やがては、歩くことも、起きることもできなくなること、を運命づけられている彼の心中を思うと、声をかけることも、電話をすることさえ躊躇してしまった。
言葉だけが決して慰めにならないこともあるのを、知っているからなおさらなのである。
今でも、弱虫な自分を恥じている。

 こんな事実も転がっていた。
世の中の不況は平凡な生活を一変させる。
30代の若さで職を失い、再就職もできず、生活保護も断られ、相談する相手もなく、一人アパートで餓死した男性のことがニュースになった。冷蔵庫には食料は全くなく、残されていた所持金は数十円だったという。
SOS・・・すら、発信できないケースである。
平凡な市民の仮面の下にどんな真実の顔が隠されていたのだろう。

 年間自殺者は30,000人を超す。一日80人あまりの人が、自らの命を絶っている。
「STOPザ自殺」、も活発化している。しかし気になるような論理も目立つ。
〈自殺は社会の大きな損失であり、その経済的な損失額は○○○○百万円に相当する〉というものである。
人間は社会に属するものであり、時に応じてある物差しで評価されるときがある。
貧富、性別、権威、名誉、国籍などが複雑に絡み合い、〈人間の価値〉を判断しがちである。
だが、金額に換算され、その多寡だけで評価されるものではないことは誰にもわかっている。
でも、人間はいとも簡単に過ちに陥る動物でもある。
人間とはこういうものである。と定義することのできるほど単純なものではない。
人間を人間らしく扱う。人間の尊厳を問う。言うは簡単かもしれない。
しかし、そもそも人間とは何だろうか。命の重みをどう表現したらよいのであろうか。
自分の命を地球よりも重いと本当に考え、そして愛し、大切に扱っているだろうか。

 自分を愛するように、隣人を心から愛しているだろうか。
まず、最も身近にいる人を愛し、理解し、大切にし、代わりに死ぬことができるだろうか。
〈重傷兵第407号〉を真に理解できる人とは、〈重傷兵第407号〉の代わりに死ねる人だけかもしれない。
愛とは何か、この辺から考えることが必要なのかもしれない。
それが、命の尊厳を深く考える鍵のような気がするのだが。

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