四苦八苦

 

 「どうしようもない。とにかく何とかしなくっちゃ。」
人は人生において、しばしば大変な苦労を強いられる時がある。
仕事上のことであったり、家庭のことであったり、個人的なことだったり、ありとあらゆる方向から鋭い矢が、自分のまわりに飛んでくる。

 たとえば、経済的な困窮は明日の食べるものに困ってしまう時もある。自分の力の限界を痛いほど知らされ、壁にぶつかり、右往左往させられる時が、幾度もある。
それほど、大げさでなくとも、日々の出来事や、チョットしたつまずき、何気ない他人の言葉の矢に胸を刺され、もがき苦しむ時がある。また、自ら困難な壁に挑戦する時がある。
 人がこんなふうに、苦しみと格闘したり、難関に挑戦して迷ったり、躓いたりしている姿を「四苦八苦」していると表現することが多い。
もともとこの「四苦八苦」という言葉は仏教用語である事は誰でもなんとなく知っている。が、さて具体的にどんな苦しみを差し、どんな意味を、いくつ言っているのだろうと考えると、立ち止まってしまうことが多い言葉ではある。
とにかく、人生の大変な苦しみを全部まとめて、「四苦八苦」と表現しているんだと、漠然と捉えているのが、ごく普通の使い方なのではないだろうか。

 では、仏教ではどうとらえているのか。
「四苦八苦」というから、四と八の全部で十二と思いきや、四と四で合計八、の苦しみと説いている。本来「四苦四苦」と言いそうだが、そうでないところが面白い、言い回しである。
最初の四苦は、〈生老病死〉、であることは誰でも知っている。
 後の四苦は、〈愛別離苦〉、〈怨憎会苦〉、〈求不得苦〉、〈五陰盛苦〉であるという。
先の四つの意味は、判りやすいがもう四つは判りにくく理解に「四苦八苦」するのが普通かもしれない。
 〈愛する人と別れる苦しみ〉、〈怨み憎む人と出会う苦しみ〉、〈求めるものが得られない苦しみ〉、〈存在を構成する物質的、精神的五つの要素に執着する苦しみ〉などは、何度聞いても忘れてしまい、聞くたびに、ああそうか、と想い出す始末である。

 だが、仏教が日本に入ってきて、民衆に判り易くこれらを説いて聞かせ、理解させた時代背景を考え、この世に満ち満ちている苦しみの大きいものは四つ、いや八つあると教えたと想像すると、庶民と僧侶たちの暮らしが急に身近なものとして日常生活の中に溶け込んでくるような気がする。いつの時代もそうであるように、年を重ねるごとに世の中の仕組みを少しずつ知り、将来への不安は次第に膨らんでいったことであろう。

 もともと、庶民の暮らしは、貧しく、生きていくために、ただ食べるために一所懸命に働かざるを得なかった。もし、何らかの事情で働けなくなったらどうなってしまうことだろう。老いてゆき、またこれで更に病気にでもなったらどうなることだろう。
無駄飯食い、という言葉は働けなくなってしまった本人が自嘲気味につぶやいた、厭世的な溜息にも聞える。
やがて訪れるであろう死は、様々な恐れを生み出す。
人間は必ず死ぬべき存在だと判り切ってはいるが、そう割り切れないものを持つのが、終わりの時の事実ではないだろうか。

 お教は今でも難解である。しかし、文字を読めない多くの人たちがいた昔は、どうやってお教を伝えたらよいか、さらに困難を伴ったであろう。そこで、文字よりも絵で「人生は苦に満ちている」と教え、極楽図や地獄図で死んでからの人間のあるべき姿を教え、説いた。

 この世は仮の姿であり、すべてのものは借り物にすぎないと説いた僧侶たちもまた、この仮の世での生活を、だからこそ、清貧のなかに生涯を閉じたであろう。
現世は生きることそのものが苦である、という四苦八苦は、庶民に日常そのものとして絵で説いて教えられていったに違いない。

 こんなふうに考えてみると、お伽噺も今までとは異なる見方も生まれてくる。
出来ることなら豊かに、そして楽しく暮らすことを願ったであろう人々に対して、たとえば浦島太郎の物語は、ちょうど中国の故事「一炊の夢」のように、儚い、実態のない世界を教える〈大人への絵物語〉だったのではないかと思えてくる。
こどもに大人が話聞かせていながら、実は話す自分自身を納得させるための庶民のお話ではないかと思う。
釣り竿以外、何物を持たない貧しい漁師が、思いもかけず竜宮城で生活にも、食べるものにも困らず、あるものと言ったら楽しいことだらけの毎日を与えられる。そして、玉手箱をもらって現実世界に戻ってみれば、宝物ではなく老いだけが残っていた。

 この世は仮の世界だが、夢ばかり追っても決して手に入れることはできず、たちまちのうちに、人生は終わってしまう。夢のような世界は初めから無いのだから、苦しくても仮の世界のなかで、ただ一所懸命に生きることが大切なんだと、大人がこどもに話すと同時に、自分自身を納得させるのが本当の狙いであると言ったら考えすぎであろうか。

 生きること、それ自体が苦であるという教えは、浄土での永遠の楽しみを実現するための通過点に過ぎないこの世を耐え忍ぶ力を与えてきたのかもしれない。
人間である以上、悩みに心ふさがれ、苦しみに打ちひしがれ、悲しみに立ちすくんだりしながら暮さねばならない時も多くあるだろう。何も持たずこの世に生れ、何も持たずにこの世を去ってゆく私たちだ。
この世にあるものは、すべて人間を超えたはるかに大きな存在からの借り物にすぎないと心から知れば、ほんの短い間、借り物が多い、少ないに心奪われ、煩うことがどんなに少なくなることだろう。
〈淡々と日々を過ごし、着ぶくれからあっさりと裸になり、借りた物をお返しし、身軽になれば軽やかな明日が待っている〉、東洋の哲学は、【清貧の思想】をそんなふうに教えているのではないか。
そうすれば、四苦八苦することも少なくなり、平穏な日々が与えられる。
一休禅師が、たどりついた心境はこれに近いだろうか。

 折り返しの人生に足を踏み入れた私たちだ。
さわやかな風に頬を向け、自然のなかで深呼吸をし、明るい日ざしのなかへ身をおいてみよう。
今日一日が愛おしく、命が掛け替えのない貴重なものとして、息づいている。
草が匂うように萌えいで、鳥が遥か彼方を飛んでゆく。
雲がゆっくりと流れてゆく。
そして、借り物を出来るだけたくさんお返して、身軽になりたいものである。

友の部屋」目次 前ページ 次ページ トップページ