土に還る

 生涯現役という言葉があるがA先生はそんな一生だったような思いである。

英語が得意で同時通訳もこなしたほど秀でていた。

奥さんと2人である小さな教育事業を立ち上げ、年をとり、老人ホームに入ってからも

顧問の形で携わっていた。

暮れも慌ただしい頃、お仕事で、アメリカからのお客様とお会いし、夕食後ホテルの浴

室で倒れられ、そのまま急逝された。

81歳とのことだった。


 春、新緑がまぶしい頃、納骨式が行われた。

墓地の霊園には多数の関係者があつまり、ご子息のB牧師が執り行った。

故人は実に温和な方であった。

先生は牧師と言う職業がそのまま人柄にも表れた、と言ってよい方であった。

ご子息も牧師であり親子二代の牧師で、親戚も含め一族が、清く正しいという模範的な

生き方の人々と言うイメージに包まれている。

納骨式のお写真は生前の柔和な表情をそのまま表わしている良いお顔であった。

真新しい墓地は静かに立っていた。450人はいただろうか、多くの人がカーネーショ

ンを無言で捧げ最後のお別れをした。

 
 人はどこから来てどこへ行くのか? ふと、しばらくの間そんな考えにとらわれた。


生まれる前はどうであったろう。

どこかにいたのだろうか、それとも、無の中から生まれたのであろうか。

無から生まれ無の中に帰ってゆく、束の間の一生をこの地上ですごすのだろうか。

永遠から見ればほんの一瞬にすぎない人間の一生。

喜びや幸せに包まれているよりも、涙にくれる日々、困難に出会うことの方が多いのが

人の一生かもしれない。


 生老病死、仏教ではこの4つが、人が負う大きな苦である、と教える。

〈生〉きていること、そのものが苦であるとは何という無情感であろうか。

〈老〉いることを知らない人生なぞあろうはずもない。

また、人は多かれ少なかれ、必ず〈病〉む。

そして、誰も等しく〈死〉んでゆく。


 この世に生まれ、過ごす一生に何か意味があるのだろうか。

「あなたの人生には、意味がある」

「人間には、この世で与えられた目的がある」

「人間には不合理と見えることにも、明確な意味がありその一生には価値がある」

これらに対して、誰をも納得させる確な答えを、いまだ人間は見つけることはできない

でいる。

この世で一生を終え人間はどこへゆくのだろう。

この答もまた、人間はすべての人々の共通する考えとしては、持ち合わせていないので

あろうか。


 復活という宗教観を持たない日本では死んだら火葬にふされる。

また、肉体は仮の姿、というチベット仏教では、死体は古い衣服のように脱ぎ捨てられ

るという考えを持つ。

肉体は借り物にすぎないという思想が、チベットでは死後の身体はを鳥に食べさせてし

まう鳥葬が今も行われている。

高い山の頂で、多くの僧侶が「人骨で作った笛」を吹く中で、鳥が死体をついばんでゆ

くのを見守る。


 
A先生の骨壺は墓地に埋葬された。

B牧師のお話が続く、“・・復活の時が来るまで、暫くの間この墓地に納められていま

す。・・・・”と。

 

「土から生まれたお前は、土に還る」聖書には、土から生まれた肉体はやがて土に還っ

てゆくと書かれている。

復活の時までしばしの間、この地上に眠るのである。

 

 この地上にある間、悪を為さず、善にのみ生きたA先生。

人間的に素晴らしい子供さんたち。そして、やはり優秀なお孫さんたちにも恵まれ、あ

あよかったな、素敵な一生だったな、と誰もが認める生涯であったと思う。

この世にあったことは意味があったのですね、と素直に問いかけられ、祝福されるA先

生の生涯であったように感じられた。


 しかし、万人が納得し、誰もが幸せであるような生涯は、この世にはたして存在する

のであろうか。

第二の人生の渦中にありながら「日暮れて、道とおし」の日々がつづいている。


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