いとおしい心

 

 一人暮らしの老人宅に昼食を届け、話し相手になる。

そんなボランテァする人が、あるときこんな話をしてくれた。

ある品の良い、質素な生活に徹している老婦人が穏やかに、とつとつと、かたっ

てくれたという。

 

『人間とは何も持たずに生まれ、何も持たずに去ってゆく儚い存在なのです。

どんなにお金持ちの家に生まれようとも、どんなに高貴な家柄であろうとも、生

まれたときにダイヤを握っている訳でもなければ、紫の衣を着て生まれてくるわ

けでもありません。
皆等しく、何も持たずにたった一人母の胎を出て、この世に生を

受けたものなのです。

そして、この世にある間、人間の眼に映る心地よいものを、より多く,より早く

より豊かにと求めることが人としての幸せだ、と小さい時から呪文のように教

えられてきました。
誰もがそうなりたいと願い、信じ、必死に努力をし、競争をする

ように駈けてきたのです。


そうすることが正しいことだ、とそう教わってきたのです。

いつになったら、求めることを止めたらいいのか、その時すら判らずにただ、我武者

羅に皆で走り続けてきたのです。
いつか、走り終わった時にはどんなにたくさんの、

背負いきれないほどの物に囲まれていても、何一つ、たった一粒の米粒でさえもあの

世に持ってゆくことはできないのに。

 

 自分が“正しいと信じてきた生き方”が本当に真実だったのか、この年になってわ

からなくなってくることがたびたびあるようになりました。

「富を求め、より多く、より早く、より豊かに」それが心の幸せにつながっていると

信じたのに。
むなしさと、寂しさだけが私の人生のように感じられてなりません。

 

 人間が住む世界、これをどんなふうに考えたらいいのでしょう。

もし、永遠というものが存在し、人間の世界にはこの世と、あの世が存在するとした

ら、どうなるのでしょう。

私たちが、今呼吸し、生活しているこの世とは、永遠の中の一瞬、仮の世界としてし

か捉えることのできない有限の時間なのだと言えるかもしれません。

とすると、この世における、富も名誉も何もかも、空であり仮のものともいえるので

はないかと思えます。


人は額に汗をし、労苦し、何を得ようとしているのでしょう。

 

 “空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦はその身に何の

益があるか”――聖書にある伝道の書には、こう書かれています。

 

 日本では、たとえば、西行法師、兼好法師、一休禅師、良寛和尚、数々の有名無名

の僧たちのように、この世の所有に心を奪われず何も持たずに生き、そして去って行

った仏教の生き方がありました。


この世は仮であり、空であるとするなら何故苦しみ、悩んで所有することに人生の全

てをかけなければならないのか。

これも空ではないか、とその生涯をかけて僧たちは現在に生きる私たちに、問いかけ

ています。

 

 “年をとってゆく事とは、一つ一つ切り捨ててゆくことである”―― と言った人

がいます。

良い事と信じ、正しい道だと思った所有も、年とともにその必要性は急速に色あせて

ゆくものです。
いわゆる物欲はしだいに衰えてゆくのが普通なのです。

何も持ってゆくことができないなら、持っている時間も残りが少ないならば尚更のこ

と。
大切なものなど何も無いように思えてきます。

あるもので満足しよう、無いものねだりなど一切意味を持たないと、割り切る心をも

う持たなくてはならない年になってきたのです。

 

 長い間増やしてきたもの、所有してきたものを失った時、大切にし自分のものだと

思ったものが無くなったときは、残りのものを数えることをせず、失ったもの、無く

したものを数えることの何と多かったことでしょうか。

在るものを感謝することだけに心を向けることの何と少なかったことでしょうか。

 

 食べるものが次第に少なくなってゆく時に、とうとう最後にパンが一つだけ残った

としましょう。
この時に、“ああ、ついにパンが一つだけになってしまった。皆食べ

てしまって残りはこれだけだ。あーあ”と言って嘆くのか。

それとも、“あ、パンがひとつだけある。うれしいな。感謝しよう”と、笑って言え

るのか。
どちらの人間として生きたいのか?と問われたならば貴方なら何と答えたい

とおもいますか。

 

 年とともに身体も弱くなり、若い時の体力とくらべようもなく衰えてきます。

時には歩行も困難となり入浴すら一人では難しくなることも起きるでしょう。

病に陥り二度と昔のように自由に動き回ることさえできない状況に置かれることも再

三でしょう。
どんなに嘆こうとも、泣き叫ぼうとも元に戻れぬ自分がそこに在るだけ

としたら。
失ったもの、なくしたものを嘆いて終わりの日まで過ごすのか、残された

あるもので満足して笑って終わりの時をむかえるのか、もうそろそろ覚悟をしなけれ

ばならない年齢にさしかかっているといえませんか。

 

 何も持たずに生まれ、何も持たずに去ってゆく存在の私達。

母の胎から出て、裸でかしこに去ってゆく私たち、一人ひとり。

着膨れで醜く太った身体から一枚一枚着物を脱ぐように一つ一つおいてゆこうとおも

いませんか。
きっと、暑さも寒さも感じないように物の所有の感覚のない世界が待っ

ているでしょう。

いとおしむものは、この仮の世で手に入れた借りものにすぎない所有物の一つ一つで

はなく、この仮の世に生を受けた心なのではないのではないでしょうか。

人間とは何という、いとおしい心の存在なのだろう、とおもいます。

やさしさとは、人と人をつなぐ空なる世の、真実なのではないかと、私にはそんなふ

うに思えるのです。

 

こぎれいに掃除が行き届いた小さな部屋には、ちゃぶ台が一つと湯飲みが一つ、たっ

たそれだけがあった。
あとは何もなかった。

やさしさをありがとうございます。そういって頭を丁寧に下げた。

話し終わると、老婦人は押し戴くようにして、昼食をゆっくりと、とりあげたそうで

ある。

 

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