翼をください(その1)

 

「平凡な人生を送ること、これが意外に難しい大事業なんだ。
これができれば、まあ満足した生き方ができたと考えてもいいのかも知れない。」
ふたりで飲んで少し真面目な話になると、こう切り出すのが戸塚の口癖だったな。

大八木順作は仰向けに寝たままいつものように、一人物思いにふけっていた。

 もう、2年もの間療養生活が続くが、病気になってからは、ごく限られた友人としか連絡を取っていなかった。
なかでも、戸塚三郎とは、若い日からあんなに仲良く過ごしたのに何の連絡もとらずにいることが気がかりではあった。
が、強いて、電話一本しないでいた。
一つには、遠方に住む戸塚が、即座に駈けつけてくれるであろうことを思うと、迷惑をかけたくないという思いからだった。
また、会うならもう少し病状が回復してから会いたい、という思いが強かった。
しかし、現状より回復の見込みがないと判ったいま、そろそろ病を得たことについても知らせなくては、と思っていた。
出来ることなら、さぶちゃん、順作と呼び合って時間があれば男二人で、特になにをするでもなく一緒に過ごした昔に戻りたかった。

 「俺は、蟻を尊敬しているのさ。蟻はね、正義の虫なんだ。」・・・・
さぶちゃんが話してくれたっけな、と懐かしい顔が思い出された。
 「蟻という漢字はね、“義”の“虫”と書くだろう。
地に這いつくばり、夏の暑さもものとせず、すこしも休むことなく働きつづけ、じっと寒さをやり過ごし、暖かくなるとまた働きつづける。
しかも、自分自身のために働くんじゃない。仲間のためさ。仲間の食料を集めるために身を粉にして働く。まさに、正義のために働く虫、なのさ。」

 「〈アリとキリギリス〉という童話があるよね。あれは、大衆を教え導く為政者の教本さ。勿論アリが大衆、そしてキリギリスは少数の特権階級を表わしている。
夏とか冬と言うのは時代を象徴している。あの頃は王権国家だったからね。古い王室が敗れ、新しい王が誕生すれば古い特権階級も共に滅びてゆく。それがキリギリスの運命なのさ。ごく一握りの特権階級の人々に比べ大衆は無数にいる。大衆がバラバラでは特権階級にとっては都合が悪い。為政者は自分の思うように大衆を誘導しなくては自分の利益にならないんだな。そこで持ち出したのがアリなんだ。右を向け、と言えば一斉に右を向き、行進と言えば同じ方向に整然と歩きだす大衆にするために、アリを見習わせたんだな。そして、なんと言っても勤勉さがアリにはあるんだ。自分を犠牲にしても仲間に尽くす従順な大衆に仕立てあげるには、もってこいのストーリーが出来上がるからね」

 「英語の時間習ったろう。アリは英語で何という?」
antさ。そのくらいの英語なら俺にも判るな」順作が答えたっけ。
「それが為政者の大衆への隠された答えなんだ。
“大衆の皆さん、命令通り働いてくれてどうもあんと(ant)さん”ってね。」
「あはははは、さすがだね。やはり洒落がうまいね。
そんなら、こんなのはどうかね。“どうも、アリが
10匹”」
順作が言うとすかさず、さぶちゃんが答えた。
「なんだそりゃ、」
「どうも、アリガトー(アリが10)」さ。
たわいもない駄洒落に二人はいつまでも笑った。

 「それはそうとして、お前はどちらの虫かと聞かれたら、順作は何と答える?
俺はやっぱり蟻だとこたえるだろうな。キリギリスのような貴重な虫でもないし、特殊な才能もない。秋の夜に立派な音楽を奏でるわけでもない。黙々と働くだけが取り柄の蟻を見習うのが俺に与えられた生きかたなんだろうとおもうよ。」

 「人間と似ているね。蟻から見たら随分広い世界で動き回っているように見えるかもしれない。
だけど、広い地平のほんのかすかな、点にすぎない世界しか知らないんだ。

その世界で、決まった季節に、時間に、黙々と働いて一生を終えるんだ。
平凡に生きる、その一言に尽きるような生き方なんだよね。」さぶちゃんは、蟻と同じような、真面目で勤勉な性格だった、と順作は改めて思った。

 日が昇れば巣を出て、一日中たゆまず働き、日が暮れれば巣にもどり、暗い巣のなかでも絶えず動き回り、雨が降れば雨水が入らないようにと巣を守る。
働くことしか知らない、コツコツと動き回ること、それが一生の全てである。
蟻と、さぶちゃんと、どこが違うというのだろう。
同じだ。俺たちだって似たようなものさ。と、大八木は思った。

 輪廻転生の摩訶不思議な世界が、ふと頭に浮かんだ。
もしかして、皆、勤勉な人間は昔蟻だったのではないか。
蟻の行列が都会をうごめく群衆とダブって思いだされた。
朝夕の満員電車に揺られるサラリーマン、歩道を急ぎ足で渡り、職場に急ぐ人々。
少し高みに登ってこれらを眺めたら、蟻と区別がつかない儚い存在なのではないか。しかし、さぶちゃんはこの平凡さを守ることが大事業だと言った。
いまさら、遅いのかもしれない。しかし、あの大空を自由に舞ってみたいと思った。
大空から見たら、さぶちゃんの言う
「平凡な人生を生き切ることの尊さ、難しさ、大切さ」
を、もっとはっきりと知ることができそうな感じがした、

 神様って本当にいるのだろうか。
無神論者の大八木は初めて神というものがあるのなら祈り、願ってみたくなった。
祈り方もどうやればいいのか、正式な方法があるのかどうか、とんと判らない。
大八木は、仰向けに寝たまま、目をつぶって呟くように、誰にも聞えないように自分流で祈ってみた。
「神様、あなたは本当にいるのですか? いらっしゃるのなら、どうか私を顧みてください。願い事を聞いてください。祈りというものを叶えてください。
私は60有余年一度も願い事も、しないで来ました。いえ、願いをすることを知らなかったというほうが本当かも知れません。いまは、一人での外出さえ思うにまかせません。もし、神様がいて、願いというものを聞いていただけるのなら、一つだけ聞いてください。お願いします。

【翼をください】、大空を自由に飛びまわれる翼をください。」

 いつしか大八木は、とろとろと、眠ってしまった。
入社式の日だった。「僕は戸塚三郎です。よろしくお願いします。
高校時代、友達からは戸塚三郎の、三郎だから〈さぶちゃん〉、って呼ばれていました。隣同士の縁ですね。どうぞよろしく」。
新入社員に割り当てられた着替用のロッカーは、大八木の隣が戸塚だった。
地方では割合に大きな自動車の部品を作る会社の工員として入社した二人は、すぐに仲良しになった。
二次下請けであったが、急速に伸びてゆく自動車メーカーの業績の後を追うように工場が拡張され、仕事量も、人員も増大していった。
工場の仕事は忙しければ残業があったり、休日出勤もあったが始業、終業時間がはっきりし、サイレンの音とともに始まり、サイレンの音とともに終わる明確な労働時間で管理されていた。
仕事の質と量を一所懸命にこなせば、自分の自由な時間が持てた。

職場は同じではなかったが、終業のサイレンが鳴って、工員たちがぞろぞろ門を出る時に、大八木と戸塚は良く顔を合わせた。
そんな時には、決まって二人で近くの居酒屋のような、ラーメン屋へ行った。
安いと評判の小さなその店は、いつも工員たちが菜っ葉服で帰りがけに立ち寄る行きつけの店である。
二人の注文はいつもほとんど同じだった。
一人二合のお酒と、一人前のつまみを注文すると、長話をした。最後にラーメンを食べるとそれでお開きだった。
戸塚は自転車を押しながら、大八木をバス停まで送って行った。
大八木はバスで駅まで行くとそこからまた30分ほど電車に乗り自宅まで帰った。
たまに二人で街へ買い物に出たりもした。
休日には海へいったりさぶちゃんの下宿でごろんとしたりもしていた。

 「日本を離れ、海外で暮らしたいな。東南アジアが自然のままでいいよ。
整然とした、美しい石造りのヨーロッパの町並みは素敵だけど、どうも俺の性に合わないな。人間がガサツだから自然のままで生きたいと思うのさ。」
「順作、俺はね、お前の気持ちもすごくよくわかるさ。でもね、いまのことをしっかりやることのほうが自分には大切だと思うんだよな。どうだろうか。
俺は、平凡に生きてゆくことに全力投球しかできない男なんだよ。けちな男だと判ってはいるんだが、冒険には尻込みしてしまうんだな。」
若い日のやり取りが浮かんでは消えた。

 ほどなく、さぶちゃんは可愛い嫁さんをもらった。
もう、休日に男同士二人で出掛けるようなことはなくなったが、機会あるごとに飲んだり、だべったりが長く続いた。
50才を少し過ぎてから、大八木は関連会社へ出向になった。
新幹線で送別の見送りを受け、遠い赴任の地へ赴いた。
古巣へ戻ることはないと思い、まだ自然の多く残る赴任地で終の住み家を手に入れ、そのまま居ついた。
定年になっても生まれ故郷に戻る事もなかった。

(その1終わり、その2に続く)

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