翼をください(その2)

  いつしか、眼がさめていた。
「お父さん、電話ですよ。誰だと思う? 会いたがっていた人からよ。
今電話にでているのは新子さんだけど、すぐに替わるっていってたわ。」
妻がコードレスの電話機を病床まで持ってくると、寝たままの順作に、“はい、どうぞ”と言いながら、渡してくれた。
受話器の向こうで、相変らず元気そうな新子さんの声がする。
「どう? 具合が悪いんだってね。うちのが心配だからすぐ電話をしろってきかないのよ。
奥さんからの葉書でそれらしいことが書いてあったんだけど、何かあったの?」

さぶちゃんからの突然の電話がなにを意味するのか順作には、すぐに分かった。
彼も電話を長くしないでいた理由を抱えていたのだ。
おそらく、さぶちゃんは寝たまま電話に出ているのだろうと思われた。

 電話によれば、彼もまた、半年ほど前から具合が悪く一日置きに通院を余儀なくされていた。
腎臓透析が欠かせないという。
「透析が一回3時間半かかるんだ。太い針を刺されてね。
これを一日置きにやらなきゃならなくなったんだ。
だるくて動く気もないよ。会社時代からずっと悪かったんだが黙っていてごめん。透析も命の問題だからというんで、やっと重い腰を上げたんだ。
みんなに、心配掛けたくなかったしな。新子の糖尿も相変らずだし。
お互いにそんな歳になったんだな。
もう少し、楽になったら会おう。それじゃあな。」

全く元気のない声だった。言葉数も極端に少なかった。
本当はもっと辛い状況ではないかと思った。大八木は自分の病状をあいまいにしたまま受け応えし、さぶちゃんのことだけを心配した。

 〈優しさは、人を温めるが、時には人を寂しくもさせる〉、こんな言葉が頭の中を通り過ぎた。
お互いに自分のことで相手に心配をかけまいと、なんの便りもせずにじっと、縮こまっていたのだ。
お互いへの思いやり、それが、かえって寂しさをそれぞれに募らせていた。

 しかし何故なんだろう、と思った。
蟻を尊敬するとまで言った真面目で、裏表のないさぶちゃんが、これから第二の人生を楽しむと言う時になって。
不公平ではないか。みんな、ゆたかな老後を楽しんでいるのに。

 あれは原田さんとの話だった。関連会社に赴任してから出会った同僚の彼は、酒は一滴も飲まず、まじめ一方の男だった。いつもニコニコとしていたが、話しだすとなかなか舌鋒鋭く、相手の間違いを正すような、正義漢の塊のようなところもあった。
彼とは、つかず、離れずの仲だったが、なぜか大八木は一つ上の彼とうまがあった。

 「僕はね、べたべたした付き合いはきらいだね。一定の距離をおいてしか誰とも付き合わないよ。君とも同じだ。これは承知をしておいてくれないか。」
そう言いながらも、自分の家の地図を書き、順作に訪ねていくことを約束させた。

 彼の家は、地方の大きな農家だった。
普段は両親と奥さんが農業をやり、休日になると原田さんが農家の仕事をしているという。典型的な三ちゃん農業だった。

 「この会社には昔、農繁期休暇というものがあったらしいですよ。
今は勿論ありませんがね。会社を作った時あまりの田舎で人が集まらず、農家の人たちも募集したんですな。
その時の名残でしょう。今でも農繁期は有給休暇を取る人が多く、仕事に支障が出るんで人材会社に派遣社員をお願いしているんですよ。」
大八木と同じように出向できている、総務担当の男のポワン〜、とした表情を思い出した。

 休日に訪ねた順作を原田さんは歓迎してくれた。
「お茶も自分の家で飲む分だけは作っているんですがね。どうします。お茶よりもコーヒーがいいですかね。」そう言いながらどちらも用意するとお湯のポットを取りに行った。
「ケーキがありますからやっぱりコーヒーにしますか。」そう言いながらてきぱきともてなしの準備をしてくれた。
原田さんはコーヒーを飲みながらいろんな話をした。
意外と話好きで、理論家だった。

ただ、うんうん、と相槌を打ちながら聞いていても飽きなかった。
彼の主張が正しいかどうか、そんなことは無関係であった。
ただ、聞いていることが妙に心地よく、気休めになった。

 「お寺の総代をやっているのですがね。ほら、いまは昔と違って、まともに氏子を務める人が少なくなったでしょう。今度本山へゆくにしたってそうですよ。本山からの要請で一泊二日の、坐禅の会へ出席を要請されていましてね。バス1台仕立てなくちゃいけないのですが、これがなかなか。昔なら、みんな喜んで参加したのですがね。
仕方ないから費用をこちらで負担するから、と言って人を集めているのですよ。

 〈只管打坐〉、といって無念無想でただ坐る。すると宇宙と一体になる。
白隠禅師は、すたすた坊主という絵を描いて、この境地をみんなに伝えたんですな。

これですがね。褌だけの裸坊主が軽快に歩いている絵です。」そう言って掛け軸をみせてくれ、話を続けた。
「何事にもとらわれない、雑事、雑念もない。自分すらなくなり、空っぽになる。勿論、誰もがこうなれるわけではありませんが、そうなりたいと修行する雰囲気に浸れるだけでも、一服の清涼剤を味わうように貴重ですよ。
俗世間から離れ、ほんの一時、仏の世界に触れる。こういう心境になれる機会なのに惜しいですよ。」

 「人はね、死ねばどうなるか。ゼロ、何にもなくなるのですな。原子にもどるんですよ。人間の体は90%が水、その水はなんでできているか。原子の集まりですよ。後の10%も、燃えて灰になり、そして原子になるのですな。生まれる時も同じ。原子が集まって人間になったり、動物になったりする。輪廻転生とはこういうことかもしれませんな。
人間も生きている時だけが、肉体をもった存在で意味があるのですね。私は100歳まで生きますよ。生きて楽しむのが目標ですね。死んで魂はどうなるのか。魂の世界はあるのでしょうが、これだけは、うまく言えませんけどね」

 「神も仏もいるものか、ってよく言うでしょう。僕は仏教徒だから仏様は信ずる。
仏様は神様ではない。だってこの世は仏様が作ったのではなく、初めから有ったものなのですよ。
皆、人は仏性を持っているのですな。この世で修業すれば皆、仏になれる。だから確実に仏様はいることになる。神様がいるかどうか、これは信仰の問題ですね。個人個人が決めることですよ」
原田さんに大八木が無神論者だとは言わなかった。
しかしあの時の言葉が心の中に引っ掛かっていた。

 神と仏は違う。神は創造者であってはるかに人間を超えたものである。
人も原子の集まりであるが、その原子より小さな物質があるかもしれないし、
原子を、またそれより小さな物質があるとしても、それらを一体誰が創造したのか。

全てのものは単なる偶然で出来た。この世界も、生きとし生けるもの全てが。
そう思っていた。だが、全ては偶然だったとしても、その偶然を創り出したはるかに偉大なものがあるのかもしれない。
その偉大なもの、Xと仮に呼ぶものが存在するとしたら。・・・・
無神論者とは、自分も含めて〈無神論という神〉を信じている人達のことを言うのではないか、とも思った。

 【翼をください】、さぶちゃんからの電話が来る前に、祈ったよりも、もっと強く願うようになった。
故郷に飛んでゆきたいと思った。
今すぐに、あの大空に飛びたちたいと願った。
懐かしい人々に、直接会えなくてもいい、空から見詰めるだけでいいと思った。
蟻のように一途に働いた末に与えられる結果がなぜこうなるのか、大空から眺めたら判るかもしれない。
そして、人間の真実を高い空から眺めて、触れて、掴み取りたかった。
平凡に生きることの一大事業とは何かを知りたかった
たそがれてゆく窓の外を順作はじっと眺めた。
「俺は、神はいない、という神、〈無神論の神〉をやっぱり信じていたのかもしれない。
人間には、仏性があるといわれるように、本当は、人間を超えた偉大なるものを必ず信じているのが人間の本来の姿ではないかと思った。翼を与えられるなら、無神論という神、を捨てて〈本当の神〉に出会いたいと思った。」
眼をつむり、深く息を吸いこむと、【どうか、私に翼をください】と、長い間順作は祈った。

友の部屋」目次 トップページ