苦難に意味を求めて(その1)

 

 昭和30年ごろまでは、お正月や、大きなお祭りには露店がひしめき広い空地や、大きな神社の境内には様々な興行がかかっていた。
露店は商い物や、その規模は変わりながら、今でも生きているが、興行は覚えている人達さえ、少なくなってしまったかもしれない。
興行のなかでも、サーカスは大人も子供も喜べる一大イベントのように華やかに、にぎやかに、いつでも人であふれていた。
サーカスの楽団が奏でるジンタは、今でも耳の奥に残って消えていない。
特に、楽団に演奏され、こども心の記憶の底に鮮明に残っているのは「空にさえずる〜鳥の声〜峰より落つる滝の音〜、」と歌われた「美しき天然」の懐かしい曲である。

 〈ジンタ〉という言葉はもう死語になっているのかもしれない。
〈ジンタ〉という名は、サーカス等が客寄せのために、通俗的な曲を小人数の楽隊で演奏する音楽が、ジンタッタ、ジンタッタと聞えることからつけられ、それら音楽の総称が〈ジンタ〉と呼ばれた。今では現代的な音楽に押され、昔のような楽隊を見ることも、曲を聞くことも、できないだろう。

 当時は見世物小屋もたくさんあった。
オートバイの曲芸は少年の心に大変な興奮を与えた見世物だった。
地球のように球体になった鉄のおりのような中に、オートバイが、二台、三台と入り込み、ブオン、ブオンとエンジンの爆発音をとどろかせてぐるぐる互いにぶつからないように回るのである。ヘルメットを被り、ゴーグルをつけ、マフラ−をなびかせ疾走する芸人たちはまるで英雄のように見えた。
お化け屋敷もあった。お化け屋敷は、なかにいるお客さんの恐怖の叫び声を拡声器で小屋の外に流し、怖いもの見たさを、盛んにあおっている。
木戸銭をついつい払って入りたくなるように巧みに演出をしていた。

 江戸時代に爛熟期を迎えたと言われる見世物小屋は、珍品、曲芸、奇獣等の
出し物を行う小屋であったがその独特の口上は、一つの風物詩と言われ、その中身より、口上に惹かれ、人々は見世物を半分嘘だと知っていながら楽しんだ。
今では差別用語とさえ言われる、ろくろ首、蛇女、タコ女や、頭が二つあるという双頭の動物をおどろおどろしく描いたのぼりや、小屋掛けの大きな宣伝用幕の前で、片手に差し棒を持ち、口上人が言葉巧みに小屋のなかへと、誘うのである。

 「さて、お客さん、見てやってください、聞いてやってください。この姿。頭はふたつ、胴は一つの大蛇だよ〜〜〜。お代は見てのお帰りだ、さあさあさあさあ入って入って、間もなく始まるよ、さあさあさあさあ入った入った、〜〜」巧みな口上とともに、小屋の中が少しだけ見えるように、小屋掛けをあげたりさげたりして、外でどうしようかと考えているお客さんを誘導しようと懸命な駆け引きをする。
詐欺として告訴されそうな、三つ目人間、乳房が4つある女、全身鱗人間、など、インチキな興行も平気でまかり通っている時代だった。

 大人になって初めて知ったことだが、見世物となった、見られる側の人々の中には人身売買で興行主に買われていった人々もいたという。そのような人々を含め、当時は社会福祉も満足ではなく、特に見世物となって生計を立てる以外に、生きるすべがなかった人々がいた。
こどもとはいえ、そこまでに思いがいたらなかったのは、時代がそうさせたことで、仕方がないことだったかもしれない。だが、いまでは想像もできない、一面では遅れた社会の悲しい裏面でもあったのである。
決して楽ではない生活に翻弄されている庶民の娯楽が、同じように苦しむ人々によって支えられるという人間の宿命のような〈業〉を、皆、大人になって気づいたのかも知れない。

 この、どうしようもない運命の哀しみの中に生きなければならなかった、一人の女性のことを知ったのは、つい最近のことだった。
両手両足がなく〈だるま娘〉の芸名で見世物小屋に自ら入り、人々の好奇の目に自分をさらし生きた女性がいた。
女性の名前は中村久子さん。1907年(明治30年)、現在の岐阜県高山市に畳職人の長女として生れた。
2歳の時左足の甲に凍傷を起こし、それがもとで突発性脱疽となり、3歳で両手両足を切断。その後何度も手、足の切断を繰り返し、苦痛に泣いた。7歳で父と死別。両手を失ったために箸を持つことができず直接食べ物に口を運び動物のように食べていた。
しかし、箸を使わず、口で物を直接食べるのは、犬や猫と同じだと、他の子ども達にからかわれ、腕に包帯を自分で巻き、そこに箸を挟んで食べることを必死になって覚えた。

 7歳になった時、優しかった父親が死に、後に残ったものは治療のために使った多額の借金と母子3人の貧しい生活だけであった。母親は女工となって働きに出るが生活は苦しく、3歳の弟は孤児院へ出される。そして母親は生活苦をなんとかしようと再婚をするが、相変わらず貧しさからは逃れられなかった。

 11歳になったころ母親の厳しいしつけで、手足がない状態で口を使い文字を書き、裁縫も独自の方法を考え工夫をし、身につけてゆく。当時は、障がい者に教育は不要という考え方もあり、また母親の再婚先も貧しく、一度も学校へ行かせてもらえなかった。中村さんは、母の再婚先で義兄のいらなくなった教科書をもらい、独学で字を習った。小さい頃から、失意や悲しみに負けることなく前向きに生きることに懸命であった。亡き父の優しかった面影と、母方の祖母の愛情が支えとなっていた。
そして、成人して自分でできないことは、自分で腕を後ろに回さなくてはできない、髪を結うことと、帯を巻くことだけだと言われるほどに、厳しい訓練を自分に課し、生きてゆくすべを、自分のものとして行った。

 1920年(大正9年)20歳になった中村さんは、生活の自立を求めた。手足がなく、当時は、これと言って職を求める手立てがなかった中村さんは、身内の猛反対のなか、興行主に頼み、見世物小屋に自ら入った。そして、芸名、〈だるま娘〉として自分の姿を人々の前にさらした。興行は、日本国中のみならず、遠く台湾、朝鮮へも巡業した。
だが中村さんは、ただ自らの運命、境遇をなげき、悲しむ人ではなかった。
たまたま見世物小屋に来た書道家、沖六鳳氏に指導を受け、書道をも自分のものとして行った。両手を失った中村さんは3方法で字を書いた。
筆を口にくわえ書く方法。長い時間書くには、右頬と肘から先がない右腕で筆を保持しながら書く方法。そして、万年筆などは包帯を巻いた左右の腕にはさんだ。残された掛け軸などをみると、見事な筆跡であり、とてもハンディを背負った人のものとは想像もつかないものである。

 24歳の時、母と弟と死別する。幼い時に別れ別れになり、孤児院で育った弟の消息がようやく判り、再会を果たす事が出来る寸前であったが、弟は病床にあり意識もないままの永遠の別れであった。
そして今度は、中村さんは人に騙されて、人身売買と同様な目にあった。が、数年後ようやく窮地から逃れ出る。
また、いままでの、自らの人生を執筆し、婦人雑誌“婦人会”に応募し、懸賞実話で一等当選という栄誉を受ける。そして、この年、結婚し、長女をもうけるが関東大震災の年に夫と死別。
27歳で再婚するが、これも2年で夫と死別する。
この間に2児を設けた。次女は昭和25年(次女、27歳)から昭和62年(次女、64歳)まで静岡県沼津市に事務員の職を得て生活した。私達のすぐそばに、中村さんのお子さんが住んでいたのである。

 3度目の結婚をするが、これは不幸な結婚であった。詳しくは語っていないが、見世物で得る収入を搾取する寄生虫に取りつかれたような状態であった。

 そして、37歳の時に、4度目の結婚。中村姓となる。
おおよそ20年の歳月を見世物小屋で過ごし1937年(昭和12年)41歳の時に芸人生活を辞め、親子で無一文の状態で上京とある。
この年に来日した、ヘレンケラー女史とお会いした。ヘレンケラー女史は、生涯で戦前、戦後、合計3回、来日されたがその都度、お会いした。
この最初の来日の際、ヘレンケラー女史に贈った、口で縫い、作った日本人形の写真がある。高さ30cm〜40cmはある立派なものであるが、とても口で作ったものとは思えない見事な出来栄えである。
そして、中村さんは、ヘレンケラー女史と会った時のことを、こう書き残している。

 『ケラー女史は私の傍らに歩み寄り、熱い接吻をされた。――――――そして、そうっと両手で私の両肩から下へ撫でおろされる時、袖の中の短い腕先に触られた刹那、ハッとお顔の動きが変わりました。下半身を撫でおろされた時、両足が義足とお判りになった――――再び私を抱えて長い間接吻され、両目から熱い涙を、私は頬を熱い涙で濡らして、女史の左肩にうつ伏しました。』

 この時にヘレンケラー女史は、中村久子さんにこう言ったと記録されている。
【私より不幸な人、そして私より偉大な人】、と。

 この間、見世物から身を引いたと言っても、生活はどん底に近い状態であり、やむを得ず、最低限の生活をするため興行界での再度の出演を、せざるを得なかった。しかし、【パンの問題はあとまわしに、精神上の心の糧に生きること】の決心は固かった。
1942年、46歳、日本は太平洋戦争の真最中である。この頃、中村さんは興行界より完全に身を引き、執筆や、講演活動に入る。
1946年(昭和21年)太平洋戦争終戦の翌年、50歳ごろより執筆活動や講演活動、慰問活動にまわりはじめるなどをし、健常者は勿論のこと、身体障害者に生きる力を与えてゆく。
その後も活動は活発化し、高山身障者福祉会を設立し初代会長に就任する。

 1965年、69歳になった中村さんは、亡き母を顕彰した、〈慈悲観音菩薩〉を建立。
そして、1968年(昭和43年)72歳で、脳溢血により波乱の人生を閉じた。

 なぜ、僅か3歳にして、両手両足を切断し過酷な運命に翻弄されるのか、因果応報では決して説明がつかない人間の運命。
どうして、何故、私が、・・・という悲痛な叫びが聞こえてくるような思いにとらわれる。3歳では、この世において罪を犯したという自覚すらもない。

 “無垢”な状態で過酷な運命を背負わなければならない人間とはいったい何なのか。
中村さんの生涯をみつめる時、答えの出ない、深い疑問に捉われるのである。

(その1終わり、その2に続く)

 

 
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