苦難に意味を求めて(その2)

 

 ところで、不条理な受難について心を巡らせる時、若い日に出会った一冊の本が思い浮かぶ。
神谷美恵子さんの著書「人間をみつめて」と言う本である。
神谷さんはこの「人間をみつめて」の中で、人間抹殺ともいうべき差別を受けたハンセン氏病と言う苦難を受けた人々について、こんなふうに書いている。

【なぜ、私でなくあなたが(私にかわってハンセン氏病を担ってくれたのですか)・・・】、と。

 ハンセン氏病は2,000数百年昔から、つい最近まで個人の生きる権利まで抹殺されてしまう過酷な病であった。病の宣告を受けると、すべてを失い隔離され二度と人間としての普通の生活にもどることはなかった。家族からも切り離され、個人の名前も消され、偽名を名乗り、社会との接触を断たれ、隔離された狭い世界に有無を言わさず閉じ込められた。
神谷さんは問うたのである。ハンセン氏病のひとたちと接し、何故なんの罪もないのに、たまたま私でなく、代わりにあなたがハンセン氏病にかかり苦難の人生を歩まなくてはいけなかったのでしょうか?と。
クリスチャンである神谷さんの人間の運命に対する深い疑問の、そして悲痛な声である。
神谷さんは精神科医であるが、叔父がキリスト教の牧師であった。
叔父が瀬戸内海に浮かぶ小島のハンセン氏病隔離施設と関係があったため、神谷さんも精神科医として勉強のため施設に通ったのである。そこで、病気を抱えた様々な人たちと出会い、“人間とは何か”、をハンセン氏病の人たちをみつめることで見出そうとしていた。
そして、何故あなた方が過酷な人生を歩まねばならない病気に、たまたま罹ってしまったのかの疑問を、【なぜ、私でなくあなたが】、という言葉で問うたのであった。

 〈無垢な人々が出会う過酷な運命は何故この世に存在するのか。〉これは過去からの答えの出ない人間に課せられた一つの大きな課題でもある。
これはまた、決して過酷な運命にもてあそばれた人々だけでなく、悲しみや、苦しみを経験するすべての人々が、いつかどこかで必ず呟く、【なぜ、この私が?・・・・】と、抱く不条理極まりない思いでもある。
人間である限り逃れることのできない、この運命をどのようにとらえ、解決の糸口を人々は見つけてきたのであろうか。

 

 今から約2500年前ごろに書かれた旧約聖書は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典であるが、この聖典の中に「ヨブ記」という書がある。
遥か昔から今に至るまで、人がいわれなき苦難に陥った時、必ずと言ってよいほどに読まれ、神に問いかけ、自らの答えを見出そうとしてきた書である。そして今の瞬間にも、なお多くの人々に読み継がれている信仰の書である。
このヨブ記とは一言で言うなら【無垢の民の、苦難に関する書】と言ってよいかもしれない。
なんの悪をも為さず、ただしいと呼ばれる人間を突然襲う不幸は、なぜ存在するのであろうか。
ささやかな幸せを打ち砕き、悲しみの淵に沈みこまねばならないのはどうしてなのだろう。
他人は幸せを謳歌し、喜びに満ちた日々を楽しんでいるように見える。誰もが幸せに見える。なのに、何故、自分たちだけが不幸を舐めなければならないのか。
“なぜ、なぜ、なぜ、・・・自分が、愛する者が、この私だけが、・・”という疑問に苦しめられる時が、ヨブに限らず、誰にも、いつの間にか必ずと言ってよいほどに訪れるのではないか。
さして悪いことをしているわけでもない。確かに人間である以上、誤解も招くようなことも、知らず犯す過ちもあるかもしれない。しかし、誰からも許されないほどの罪を犯し、人に大きな迷惑をかけているとは思えないのである。
だが、苦しみや悲しみが、自分たちにだけ向かって襲ってくるように思える。いわば【無垢の民】に対して降りかかる災難がこの身に降りかかってくるように感ずるのである。

 ヨブ記をごくごく簡単に整理すると次のようになる。

『ヨブという名前を持つ一人の行い正しく、神を敬う、義人と呼ばれる高潔な人がいた。彼には7人の息子と3人の娘、多くの羊他、財産があり祝福されていた。

ヨブが幸福の絶頂にあったころ、天では神の前に〈神の使いたち〉が集まりそこには、サタンもいた。サタンはヨブが神に従順なのは利益を期待してであって、財産を失い、自分に利益がないと分かれば神をも呪うだろうと、主張する。そこで神はサタンにヨブを試すことを許す。そこで、サタンはヨブを打つのである。

 ヨブはある時、突然すべての財産、そして愛するこどもたち全員を失い、無一物になる。何故、こんなにも不幸を味わわなければならないのか、ヨブには判らないが、ヨブは、この災難のために、神を呪うなどの罪を犯さなかった。
サタンはこれでも、ヨブが正しいのをみると、次にヨブ自身を〈重い皮膚病〉にしてしまう。
2500年も前の社会情勢では、〈重い皮膚病を患うことは社会的に死を宣告されたこと〉を意味した。
あまりの辛さに、妻までもが“神を呪って死ぬ方がましだ”と、主張するようになる。
しかし、このような中にあってもヨブは妻に向かい次のように答える。

【お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福を頂いたのだから、不幸もいただこうではないか】と。

 多くの友がヨブの苦難を因果応報だと非難する。ヨブよ、そんなに苦しみに遭わねばならないのは、かってお前が罪を犯し、その報いを今受けているのだ、と主張するのである。
だが、ヨブは“神”に訴える。【私は罪を犯していない。なぜ、このような苦しみを受けねばならないのか】おしえてくださいと。
そして、極限にまで苦しみに陥った時、ついに神は答えられるのである。
神はつむじ風の中からこう、こたえられる。

【私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。】とヨブに言われた。

ヨブはこの一言で、すべてを理解した。
すなわち、神は人間をはるかに超越した存在であることを。人間の思いを越えて、世を支配されるお方であることを。
人間は神から見たら、小さな創られた存在、被造物にすぎないことを悟るのである。

(こののちヨブは苦難を取り除かれ、以前にも増して祝福された。7人の息子と3人の娘、多くの財産である羊、ラクダ、牛、ロバを再び与えられた。)』

 義人ヨブがなぜ、苦難を受けなければならないのか、人間の理屈では答えが出ない問題である。最後のカッコで書かれた幸せな状態にもどるという記述は、一部の聖書学者の間では、後世に書き加えられたのではないかとも言われている。すると、もしかしたら、2500年前は、ヨブは不幸に陥ったまま捨て置かれたようになっていたかもしれない。
正しい人がなぜ、試練を受けねばならないのか、それは人間には明らかにされていない神秘であると言っているのである。
ヨブ記そのものは長い記述であり、こんなに簡単に言えるものではないが、【人間は神の被造物であり、神の意志によって生きるものであり、神と同じ高みに立って、神の真理を論ずべき存在なのではない】ということが語られている。人間は神の前では、無力な、小さな存在にすぎないのである。

 しかし、現実に苦しむ人々を前にして、苦難をどのように受け止め、一緒に歩んでゆけばよいのだろう。自分が、もし同じような立場に立たされたらどう理解してゆけばよいのだろう、
昔、見世物小屋に売られていった人々の苦しみはどれほど大きかったかしれないのである。
中村久子さんは、たくましく生き抜いた。神谷美恵子さんも素晴らしい業績を残された。

人間とは何か?
一隅を照らしながら駆け抜けていった人達のことをじっと考え、自らの光とは、と、思いを巡らせた。
【世は去り、世はきたる。だが、大地は永遠に変わらない。日は昇り、日は沈み、また元にもどって、ふたたび昇る】2500年も前の、神の言葉が現代人に静かにこう呼びかけている。

「一隅を照らす光」として、「闇の中にほんのりと光る灯」として、この世に送られたのが、人間一人ひとりなのかもしれない。

 どんな人もただそのままで尊いのである。汚れていようが、悲しみに打ちひしがれていようが、罵られ、そしられていようが、何の価値もないように見えていても、そのままの姿、形、あるがままのあなたが尊いのである。
なぜなら、そのあなたを神はよきものとして、用いてくださるのだから。神に応答するあなたを闇にひっそりとともる光として用いてくださるのだから。
燃え尽きてゆく蝋燭は、きれいなままにその姿を消してゆくわけではない。時には、いびつに溶け、また溶けた蝋を垂れ流し、まわりを汚し、じりじりと燃え尽きてゆく。
明るい太陽の中では蝋燭の光はなんの意味もなく、なんの役にも立たない無用の長物かもしれない。
しかし、闇に覆われた時は、どんなに小さな光であっても世を照らす光となりうるのである。
もし人間が生きて意味あるものであるなら、まさに「一隅を照らす光」として存在することかもしれないと思った。

 はるか遠くでそんな声が密やかに聞える。

 
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