朗らかに、爽やかに

 

 信長が好んで舞った謡に、敦盛という曲があったという。

“人生わずか50,下天のうちにくらぶれば、夢幻の如くなり” 
出だしのこの有名な言葉だけがよくいわれ、多くの人の口の端にのぼる。

僅か、50年の人生と詠んだ人も,唄った人々もまた、もっと長命だった人々も、短命だった人々も、多少の違いがあったにしてもみんな過去の扉の向こうにいってしまった。
今、生きている人々もこれから生を受ける人々も、出会いと別れを繰り返し歴史の中にいきてゆく。

 仏教での八苦の中に、別離がある。永遠の別れだけを言うのではなく、日常の生活の中で生ずると友との別れや、愛の破局なども悲しみであり、苦しみであると説く。

 春は別れの季節と言ってもよいかも知れない。卒業、進学、就職といった節目に訪れる別れが人の心に惜別の思いを残してゆく。

 だが、別れは悲しみだけでなく、新しい出会いの喜びの出発点でもある。桜の咲く季節は、見知らぬ土地との出会い、見知らぬ人々との出会いの最も多い季節でもある。希望の時ともいえる。人間は絶えず何らかの別れと出会いを繰り返し、繰り返している存在である。悲しみと喜びを成長の源にしている、有限な存在、生き物ともいえる。

平均寿命は驚くほど延びた。社会も、別れと出会いの密度も、あらゆる内容も、昔と比べようもない違いが生まれただろう。
老老介護の言葉も生まれたように親子の別離も、また新しい展開をみせている。

 だが、ハッキリしていることがある。変わらぬ真実が一つある。

「人はいずれ、皆去ってゆくことである。」

どんなに長生きしようが、この悠久の宇宙の中で、ほんの、一瞬生を受けた存在であり、生まれては消えてゆく、はかない命をもったものにすぎないのである。
泣いても、笑っても、どんなに喚こうとも、ほんの一瞬にすぎない存在でおるとしたらーーー。

 無我夢中で生きた若い時にはあまり意識すらしなかった、「凛」とした生き方。
敦盛のように冷静に、心落ち着けて見つめることが必要な時を迎えていると言えないだろうか。
有限な存在であり、また終わりの日がいついかなる形で来るのか知ることさえできない存在ならばーーーーー。

 どんな時でも、どんな状況に置かれていても、常に微笑みを絶やさないでいたいものだと思う。別れの悲しみが心をふさぎ、まわりが見えなくなってしまわないよう、出会いの喜びでいつも朗らかな心にしたいものだと思う。
爽やかな風のように、白い雲のように、人々に安らぎを届ける存在でありたいと思う。現役を離れ、おまけの人生を歩む余裕を与えられたのだから。
何も持たず、なにも欲しがらず、一つずつこの身から放し、持たないことが喜びとなりたいものだ、と凡人の夢がかってに春の大空をかけてゆく。




友の部屋」目次 トップページ