大正浪漫

 

 お江戸日本橋から数えて、22番目の宿場町は今日も晴れ渡っている。こんな、明るい太陽の下なら、心も外に向かって扉を大きく開けることができる。
いつもは閑散とした両側に続く商店街が、なんとなく賑わって見えるのも、陽の光が為せるわざかもしれない。
往時の東海道53次は、こんな日には大名行列が町の人たちの目を惹いたに違いない。
この宿場町にも、“下に〜、下に〜”と、行列の掛け声が町を駆け抜けたであろう。

 明治22年、旧国鉄の東海道本線の駅がこの町にも出来、鉄道が開通した。
この時に、線路は中心街を大きく迂回するように作られ、駅は宿場町の数km南側にポツンと作られた。町の中心からなぜ、わざわざ離れたところに駅を作ったのか、なんだか不思議な気がする。
だが、離れて作られたのには訳があったのである。
当時の宿場町の商人たちは駅ができることにより、賑わいを駅に奪われ、商店街が衰退することを恐れたという話が今に伝わっているのである。一昔前、商店街に大型ショッピングセンターなどが進出すると、地元の商店の客は奪われ、立ち行かなくなるとの反対運動が渦巻いたことがあった。今では想像もつかないが、これと似たような現象だったのではないかと想像された。
ともかくも、明治時代に、駅が離れた場所に出来、駅を中心とした、こじんまりとした町並みと、昔からの宿場町の商店街の2つができた。

 日曜日の午後、用事が済み、たまには外食をしようと、この旧宿場町の商店街を家内と二人で訪ねた。ゆったりとした曲線を描くように延びた、さほど広くない道路を挟んで両側に商店街が並んでいる。古い町屋に特徴的な、狭い間口の商店が昔ながらの商いを伝えている、そんな時代の匂いを醸し出している町並みである。
江戸時代、幕府は財政立て直しのため、京都に古くからあった間口税を全国の町屋に課した。玄関の広さに応じて課税するいわば現代の固定資産税である。
町民は間口を狭くすることで、この課税を出来るだけ少なくする工夫を、こぞってしたと言われている。
古い昔ながらの商店街などに存在する、間口が狭く、奥行きが長い家々はこのようにして庶民の節約の知恵が生んだ形であり、数百年の歴史を刻んできたのである。
建物としては、江戸時代のまま残っていることはないが、その有り様だけは、昔を今に伝えている。このメイン道路を挟んで幾本かの裏通りがある。

 車が
1台通行できるだけの細い通りを抜け、ある、裏手の飲食店へ行った。
如何にも地方の古い料理屋のような、しかし下町の汗のにおいがするような、気さくな構えである。
入口をはいると大層混んでいた。椅子席は3つ。その先に細長く座敷が伸びている。座卓が8つほどもならんでいたが、どの席も満員であった。お昼時を少し回っているのに、これだけ沢山のお客さんが入っている。裏通りにあって、“知る人、ぞ、知る”というようなお店である。さすが、古くからのお店だな、と一寸感心しながら、席の空くのを待っていたがその間も、お客がやってくる。その日は、たまたまそうだったのか、若い人よりも、中年を過ぎた感じの夫婦連れが多かった。
店内には、ざわめきと共に、三味線の音が響いていた。よく中は見えないが、小座敷らしい部屋が隅にある。音はそこから流れてくる。よく聞くと、テープではない。生である。
三味線の練習をしている。少々驚きである。
顔も、姿も見えないが、もしかしたら着物姿の女の人が現れるのではないかと、勝手な想像が膨らんだ。

 やっと空いた二人用の狭い椅子席に座り、庭を眺めた。昔はさぞ立派な作りの庭だったろうと思われる。
今は半分を駐車場にしてしまい、2030坪しかないが、それでも昔の宿場町でこれだけの庭を確保するのは大変だったであろう。
創業当時はきっと自慢の庭であったに違いがない。いつか、このお店の古い写真を見たことがあった。セピア色となった写真には、コックの姿をした人たちがお店の前に緊張をしたように、幾分誇らしげに、ならんでいた。

 お店の名前は「大正亭」である。

日本人は肉食と言えば魚が主体であったが、明治以降、急速に豚肉や、牛肉を文明開化の華のように食べるようになった。庶民の口にいつでも入るとは行かないまでも、洋食の定番のように普及していった。「大正亭」は、そんな高級洋食屋として、和風の店構えで今に至ったのではないかと想像させる。
メニューも、かつ丼、カツライス、ヒレカツ、牛丼、ビフテキ、牛鍋など、豚、牛の肉料理がずらっと並んでいる。
テーブルでなく、座敷に坐って牛鍋をつつく姿は、まさしく浪漫である。
 あれこれ想像すると、年配のお客が昔を懐かしんできそうなお店に見えてくるから不思議である。先ほどまで混んでいたとなりのテーブル席には、80代と思しきお年寄りのご一家がひしめきあうように坐っていた。お年寄りと肉料理は何となくチグハグであったが、懐古調のお店には似合いなのかもしれないな、と思った。
一昔前の漆塗りの長四角な容器に入ったかつ丼が運ばれてきた。蓋を開けると、家庭で作るような卵と葱でとじた、ボリュウム満点の熱々の料理である。
レストランの見た眼の美しさや、現代的な器の華麗さとは違う、懐かしさがこみあげてくる。
大衆食堂、いまでは、そういった方が良いのかもしれない雰囲気にあふれてといる。でも、ここが、かつて見た、セピア色の写真にあったコックさんが腕をふるった店だと思うと、なんだかとても美味しい“味自慢”を今に伝える洋食の店のような感じがしてくる。

 店の名前がとにかく素敵である。「大正亭」と言う名は、古い浪漫を彷彿とさせる。
創業は明治
26年と聞いた。110年以上の長きにわたる。「大正亭」という名前に変る前は何と言ったのだろう。古い町には、古い店も似合うものである。

 そういえば、この古い宿場町の商店街にはもう二度とお目にかかれないだろうと思うお店があった。
和風の狭い戸口には厚い一枚板の大きな看板がかかっている。

【かざりや勘治】、墨太の字が通る人の眼を惹く。店の中に入って眺めたことはないが、和服に用いる装身具であることは直感的に感じてはいた。

【かざりや】という職業が昔はあったと聞いていた。帯留めや、指輪などの金具の細工をする職人を飾り師と言ったのである。これらを商う職業が【かざりや】と呼ばれていた。店名が勘治と言う名前で、おそらくは代々職人がこの名前を継いできたと思われる。

地方都市にまだ【かざりや】と言う職業が残っているだろうか。

東京の浅草、あるいは京都の街なら一軒や二軒あるかもしれない。東海道の鄙びた宿で、【かざりや】が今でも商売を続けているなど、驚きの一語に尽きる。

 

 おそい昼食をゆっくりと二人で済ませた。相変らず陽の光は暖かく降り注いでいる。

「おいしかったね。またこようね。今度は、子どもと一緒にこれたらいいね。」家内の言葉を暖かく背中に受けて、店の戸を外に出た。

 

 

 
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