人生はヤジロベエ

 講師の歯切れのよい話は、多くの聴衆を惹きつけていた。平日にも関わらず800人ほども集まり、講演会は盛況だった。脳を活性化する、という医科大学の名誉教授の講演は、原稿なしで予定の1時間半を話し続けている。

〈生きいきライフ〉と銘打った集会には、第二の人生を有意義に過ごそうとする、真剣な、しかし明るい人たちばかりのような、前向きな雰囲気に包まれ、皆、熱心に聞いていた。

話は参加した聴衆のもっとも関心がありそうな、身近になる老後にしのびよる、核心の部分に触れていた。

 

講師の話は続いていた。

“これからの人生「ボケないために」4つの事が大事です。1つ目は指の細かな作業をつづけること。2つ目は、引きこもりにならないこと。3つ目は趣味を持ちつづけること。4つ目は、人生は意外に平等にできていると思うこと。・・・”、

 4つ目の、人生は意外に平等にできていると、思うこと、の話を具体的に聞いているうち、ふと【同じだ、栗と同じに平等なのだ】、という思いにとらわれた。

栗の話は若い頃にさかのぼるが、次のようなことがあったからだ。講師の話は続いていたが、ふと昔からの事が頭をよぎった。

 『自宅から20分くらい車で走ると、もうそこは山に囲まれた畑が点在する里山になる。両親や、弟が眠る霊園が、そんな静かな山間に隠れたように広がっている。

宗教を問わず受け入れてくれるこの霊園に、初めて訪れたのは、もう30年近く前のことだった。キリスト教の教会墓地もその霊園にあり、そこで行われた、墓前礼拝に参加したのである。
それから、何度か訪れ、遠い将来必要となるであろう、自分たちのお墓をここにしようと、妻と二人で相談した。自分たちが眠りにつくと決めた場所は、南側に面した、陽が燦々とふりそそぐ斜面にある。一日中いつでも陽が射している、明るい場所である。
当時は現在の半分ほどの、2,000基ほどの墓地があり、空きがまだあり分譲の募集をしていた。

 霊園の管理事務所は墓地の入口にあり、休日に訪れる参拝の人たちに便利なようにと、土、日曜日も事務所の人がつめている。
霊園管理料は一年間ごとに管理事務所に払うことになっていたが、自分は支払いを忘れてしまうかもしれないから、と言って数年分をまとめて支払っていた。

 ある年、管理事務所を訪れた時のことである。受付のカウンターの上に、栗がイガに入ったまま何個か、飾られていた。墓地のある山の木になったという栗は、イガも濃い茶色になり、割れてはじけた間から、見事に艶のある姿をのぞかせている。
50代の後半に見える事務員の男性は、帰り際、“イガに入ったままの栗は珍しいでしょうから”、と言って23個持たせてくれた。
しばらく自宅に飾っておいたが、イガを取り除き、実だけを取り出した。
イガの中には3個の身が入っていた。真中の実と、左右に一つずつ、計3個である。一つの栗は、真中の実が膨らんで大きく実を結んでいる。その真ん中が膨らんでいる分、左右の実はへこみ、小さくなっている。別のイガからとれた実は、3つとも同じように膨らみ均整がとれていた。
当たり前と言えば、当たり前のことだったが何か心に引っかかった。

 それからは、栗の実を注意して眺める癖がついてしまった。よく実がいり、膨らんでいる反対側を想像した。栗は、左右の実と、真中の実は、すぐに判別がつく。左右がぷっくりと膨らんでいれば真ん中がへこみ、真中が膨らんでいれば左右がへこむ、ただそれだけのことだった。だが、年を経るごとに世の中が少しずつ判ってくると、お墓=人生=栗、という等式がしだいに頭の中に、出来上がるようなきがしていた。霊園を訪れるたびに様々な人々が眠るお墓には、眠る人々のかずだけの人生が、かって存在していたという思いが強くなった。

 お墓とは、死して終わりがないあの世での人生が、静かに眠る場所であり、これからも、永遠と共に、葬られる場所であった。お墓に眠る個々の人生を知りうるわけではないが、同時にその一つ一つの人生は、栗の実に似ているのではなかったかと思った。一つのイガに入っている実の総量はどれも似たようなものである。ただ、中身は様々かもしれない。時に大きく膨らんだり、時にへこんだり、そして、なんの変りもなく皆同じように実らせたりする。良い時もあれば悪い時もある。でも、それは全体的に見ればイガ全体では同じように、さして変わりはないのではないか。幸せの量も同じように言えるかもしれない。親が苦労をして勝ちえたものを、子どもが享受することもあるだろう。しかし、売り家と、唐様で描く三代目、といわれるように繁栄も昔から長続きしない。また、人の一代だって、どん底を潜り抜け、最後に幸せが来ることもある。その逆もまた、星の数ほど存在したではないのか。高みに立って、人生を静かに見つめたら、【お墓=人生=栗】という考え方も案外当たっているかもしれないと思うようになっていた。』

 【人生は意外に平等にできていると思うこと】について、講師はヤジロベエを例に話をつづけていた。
ヤジロベエには前後のヤジロベエと左右のヤジロベエがあるという。ヤジロベエとは、中心にドングリや人形の形をした一本足の支点を作り、左右に重りを付けた誰でも知っている簡単なバランスのおもちゃである。江戸時代に考案され、東海道中膝栗毛の弥次郎兵衛に由来するともいわれる名前でもある。

 ヤジロベエは普通、真中を支点に左右に揺れる。右が上がれば、左が下がり、左が上がれば、右が下がる。片方が大きく上がればもう片方が大きく下がる。
講師によれば、前後のヤジロベエとは、過去、現在、未来を指すのだという。過去に良いことの一杯あった人生は、もしかしたら、将来は運が下降するかもしれないし、その逆の人もいるかもしれない。また、左右のヤジロベエは日常の出来事を言うようである。私たちの日々は、良いこともあれば、悪いこともあり、また、悪いことばかりということはなく、必ず同じような量だけ良いこともあるのである。悪いことばかりだと。くよくよ考えないで、【人生は意外に平等にできていると思うこと】が大切だ、と話されていた。

 【人生はヤジロベエである、上がったり、さがったり、いつも揺れ動いている】、確かにそうなのだ。大切なのは、揺れ動く時も、支点となる中心の軸がいつもしっかりと地面についていること。そうすれば、前後、左右に揺れ動くことを一つの変化として、楽しんで見る余裕さえ生まれるかもしれない。

 そんなことを思い出し考えているうちに、講師の話は次の話にかわっていた。

“くよくよ、悩んで鬱にならないためには、3つの事が大切です。一つは、呼吸をゆっくり、出来れば10数えるくらいの長い時間で、吐いたら、次の10で吸う、という深呼吸をすること。11回はこの深呼吸をやってみましょう。

次に11回は正座をして背筋を伸ばしましょう。そして3つ目は、何かあったらいつでも自分に言い聞かせること、それは「困ったことは起こらないぞ」「すべての事は良くなるぞ」と自分に向かって言ってあげることです“

 聴衆は真剣に講師の話を聞いていた。人と比べてみてもなんの意味もないことだが、【人生は意外に平等にできていると、思うこと】という言葉は、人生の折り返しに立った人たちに、〈何とか生きてきたのではないか〉、という一つの安心感のようなものを与えていた。

栗の実がまた、思い出された。3個の実は、左右の重りと、真中の支点を表している。大きく揺れるヤジロベエができることも、小さな振れのヤジロベエになることもあるだろう。でも所詮イガの中での出来事かもしれない。

人生という栗のイガに包まれてしまえば、さして大きな違いはないのかもしれない。夥しい人々が眠る霊園は、今日も静かに陽の光をあびているだろうと思った。

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