DuoConcert(二人きりの演奏会)

 

 フィンランド生まれの若い男性が演奏するのはバイオリン。ピアノは、日本人の若い女性の音楽家。二人の「デュエットコサート」が開かれた。

 百人も入れば、いっぱいとなるキリスト教会の礼拝堂は、演奏が始まると、コトリとも音がしないほどに、静まり返った。激しい情熱を持つスペインの曲、アルゼンチンタンゴ、初めて耳にする曲ばかりであったが、次第に引き込まれてゆく。ピアノはたたきつけるように激しく鳴り響き、ほとばしるしぶきのように、急流を流れ落ちる水のように駆け巡る。そして、平野をゆっくりと通り過ぎ、やがて海へそそいでゆく。

 澄んだバイオリンの音がピアノをリードしたり、寄り添うように、高い音、低い音が清らかな音を紡いでゆく。ボンボンと指で弾く時があると思うと、むせび泣くように小さな声でささやく。多彩な音が聞く人を魅了する。
近くで聞くバイオリンの音色は、震えるように、木の葉がこすれるように、照りつける夏の陽の間から、一陣の風が駆け抜けるように、絹が触れ合うように、自在な流れを奏でてゆく。

 そもそも、現役のサラリーマンを離れた、この年になるまで、音楽会にまるで、興味も関心もなかった。芸術たるものに、まるで音痴なのである。私は、無趣味の、味も素っ気もない人間である。
チンプンカンプンのまま、ひょんなことから、妻に音楽会に引っ張り出され、生の演奏会に連れて行かれた。その後も、数は少ないが何回か演奏会につれて行ってもらった。

 以前、連れて行ってもらった時には別に、期待もしなかったが何回か、生の音楽を聴いているうちになにか、不思議な新鮮な空気に包まれた。
少々大げさにいえば、魂の震えるのを感じたといえるかもしれない。

 生の演奏会はなぜ、こんなに人を感動させるのだろう。
同じ演奏会でもレコードなり、テープによる鑑賞ではたとえ、まったく同じように音楽が流れてもこのような感動は呼び起こさないだろう。
 

 もしかしたら、人間と、人間が、直接向き合うことにより感動が生まれてくるのかもしれない。直接話し合うことがなくても、たった一つの同じ価値観、音楽というもので、心が通じ合い、相手を混じりけのない純な姿で無条件に受け入れているのではないか。

 生の演奏会では音楽家は、ただ、夢中で音と向き合い楽器と戦っているように映る。
聴衆は全く目に入らない。嘘いつわりがない。上手に演奏しよう、拍手をたくさんもらえる演奏をしよう、等という技巧的なことがない。
そんな姿勢が溢れて、更に、感動を呼び起こすのかもしれない。

 恰好よく見せたい、一流であろうとなんとか知ってもらおう、人間なら誰しも期待もするだろう。何時も、聴衆の目を気にしていたら感動は、きっと伝わらくなる。
人間の生き方も同じかもしれない。

 お金持ちになったら、偉くなったら、人よりちょっぴりでも優位に立てたら、自分が何か偉いものになったような気がする。
愛に生きよう、誠実に生きよう、他人と比較するのではなく、自分自身が正しいと信じた道を生きるんだ。
そんな思いも、人の目を気にし、他人と比較されることばかりを、気にしてしまう。
そして、いつの間にか自分はいなくなり、他人の目という黒い雲に覆われて自分が、どこかに、かき失せてしまう。
そして、普段言っていることと行動が、まるでちぐはぐな、滑稽な生き方となってしまっているもう一人の自分を発見して、愕然となる。

 バイオリンと、ピアノという全く違う楽器でありながら、渾然一体となって一つの音を作り出すように、聴衆を意識せずにただひたすら音を追求する演奏家のように、言動と行いに全く矛盾がないように、一心不乱に求めたいものだとつくづく思う。

 美輪明宏さんは今年で74歳になった。
今でこそ、一つの芸術として認められたがそれまでの人生の浮沈は言葉では言い表せないという。
陰口、悪口、無視、中傷、芸能界からの追放、ありとあらゆる非難や暴言を受けた。
美輪明宏さんは言う。

“耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えてここまで来ました”
“これから先もどうなるのか、わかりません。信じた道を生きてゆくしかありません”

「耐えて」という言葉を、何回も何回も口にした。
華やかなスポットライトの裏には、他人には想像できない、影に隠されたドラマが幾重にも重なっている。
最も新しい自身の作詞、作曲の「老女優は去りゆく」という曲を聴いた。
真っ黒な衣装に身をつつみ、涙を流し歌う姿に、その歌詞に、そして、歌い終わり、後ろをむいて肩を落とすように、ゆっくりと、去ってゆく姿に、美輪明宏さんという人の表裏のない、真実の姿を垣間見た思いがした。

 DuoConcert(二人きりの演奏会)で演奏家が聴衆に、感動を知らずに与えたように、平凡な我々にも、一心不乱に、他人の目をきにすることなく、ともに美しい人生という音色を、出すことに夢中になれるかもしれない。
また、美輪さんのように、“耐えて、耐えて、耐えて”信じた道を突き進むことができるかもしれない。
たとえ、いずれのようにもなれなくても、他人を非難し、中傷し、傷つけることだけは、避けられるかもしれない。
たとえ、自分がどんなに傷つけられても、他人を傷つけることは生涯しないように、ひたすら努力することは、残された時間の短いものの責務かもしれない。
血を流すのは、自分だけでいいのだから。

 私たちはどんな楽器であろうか。
美しい音色を奏でるだろうか。
うるさい、雑音ばかり出す楽器にはなりたくないものである。

「若さを保つことや善をなすことはやさしい。すべての卑劣なことから遠ざかっていることも。だが心臓の鼓動が衰えてもなお、微笑むこと、それは学ばなくてはならない」
                      (ヘルマン・ヘッセ)

 
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