あなたは誰?何処へゆくの?

 

”あなたは誰?“  
”何処から来たの?“  
”ここで何をしているの?“

“そして何処へゆくの?”

風のようにそよそよと太陽のように明るい陽ざしの中で、しかし周りの音がかき消されたような静けさの中で一つの声がする。
小さな声だ。若い少年か少女のような澄んだ声がゆっくりと心の扉をそっと押すように聞こえてくる。
その時々によって質問内容も声も時間もまちまちだった。

“何のために生きているの?”   

“幸せってどんなこと?“

 中学生のころからだったろうか。
空虚な時、本を夢中になって読んだあと、静かに思いを巡らせる時、何かに行き詰まった時などに、こんな思いがふと顔をのぞかせては去って行った。
誰にも聞けなかった。ただ一人で考えるしかなかった。
青春時代の誰にでも起こる、ごく平凡な出来事であったが。

 大人になり仕事につき、多忙で心が奪われたり、新しいことに心が向き、何かに夢中になり、また喜びで心が一杯のときにはそれらのことにだけ思いが向き、考えることも質問の存在すらほとんど無くなっていた。
職を離れ、時間もゆとりも有り余る年代になり、誰しも経験するように、若い時のように、かすかな声が心に響くことが多くなった。

“あなたは何処へゆくの?”  

”これから何をしたいの?“

 我武者羅に働いて生活を守る必要はなくなった。
必要なもの、欲しいものも、ほとんどなくなった。
贅沢をしなければ年金で夫婦二人、何とかやっていける。
周りを見渡せば、同じような環境に置かれた人々があちらにも、こちらにも、のんびりと暮しているように見える。
平和な時が流れている。
少なくとも、表面的には穏やかな晩年を静かに過ごしているような、安定感がある。
それぞれの人達の胸にも、あの声が、つぶやきが、若い時と同じように再び、届いているのだろうか。

 ”あなたは誰?“  
”何処から来たの?“  
”ここで何をしているの?“

“そして何処へゆくの?”――― と。

 今、同じような質問を残して約110年前、足早に去って逝った一人の人を思い出す。
遺書代りに描いたと言われる大作に、次のような謎めいた題をつけ、失意のうちに南太平洋で生涯をとじた一人のフランス人画家である。

ポール・ゴーギャン、彼の代表作の絵につけられた謎めいた題は、私たちを不思議な世界へと誘う。

【 我々はどこから来たのか? われわれは何者なのか? われわれはどこへ行くのか? 】・・・・と。

 これが、おそらく、誰もがいちどは目にしたことのある有名な絵の題名なのである。タヒチ島の眩しい陽光の中で、真直ぐに、健康にはち切れんばかりに立ち、真上にある果物をもぐ、タヒチの若い女性。左右にいる女性たちと、子どもと老婆。
南国特有の風景を青い絵の具で表現した構図。
一見、明るさに満ちた南太平洋の楽園にしか見えない一枚の絵。
高さ140cm、幅380cmの大作である。

 【我々はどこから来たのか?われわれは何者なのか?われわれはどこへ行くのか?】・・・・これが絵の左隅上部に、フランス語で、まるで本のぺージが少しばかり、めくれているような独特な形の中に、何気なく、書かれた言葉なのである。

 自殺を決意して描いた絵の隅に書いた文字に、ゴーギャンはどんな思いを込めたのだろうか。
彼もまた、〈人間とは何か〉を捜し求めた人だったと言えるのではないか。

 1848年フランス、パリに生まれる。南米ペルーに移住するが、2歳の時に父親を亡くし7歳の時に再びパリにもどる。17歳までオルレアンの神学校にて学び、航海士、海軍を経て株式仲買人となり、平安な家庭を築いた。
しかし、35歳の時に株式相場の大暴落に遭い、人生において安定的な生活の保障なぞあり得ないと気付き、仲買人の職を辞した。

 それまで日曜画家だったが、本格的に画業に専念するようになる。
しかし、絵は一向に売れず、家庭も破綻。
1891年、西洋文明に絶望し、楽園を求め南太平洋にある仏領タヒチ島に渡った。
この地にわたって描いた絵も、故国フランスでは評価されず貧困、病苦のうちに失意の日々をすごした。
47歳の時に最愛の娘が19歳にて死去の報に接し絶望し死を決意することとなる。遺書代わりに、彼は1枚の絵を描くことになるが、この時貧しさゆえにキャンバスも買えず、麻袋をキャンバス代わりに使用し、大作【我々はどこから来たのか?・・・・・】を描いたのである。自殺は未遂に終わり、更に辺鄙なマルキーズ諸島にわたり、この地で54歳の生涯を閉じた。

 ゴーギャンは多感な少年時代をカトリックの神学校で学んだ。
この神学校時代、キリスト教の霊的な影響を与えようと試みた三つの教理が生徒に教えられていた。

@  人間はどこから来たのか。

A  どこへ行こうとするのか。

B  人間はどうやって進歩するのか。

の三つである。

 後半生、ゴーギャンはキリスト教の権力に対しては猛反発をしたと言われているが、しかし神学校で学んだこれらのキリスト教教理問答はゴーギャンから終生離れることはなかったと言われている。
このキリスト教教理問答が、最後の遺書としての絵の題名に決定的な影響を与えていると言っても間違いはないであろう。

 絵も意味するのは、人間の一生だと言われている。
画面右側の子ども共に描かれている3人の人物は「人生のはじまり」を、中央の人物たちは「青年期」をそれぞれ意味し、左側の人物たちは「死を迎えることに甘んじ、諦めている老女」であるという。

 ゴーギャンの問いかけに対しても、まだ誰も声をあげて、はっきりとした答えを出してはいない。

【われわれは何者なのか?・・・】、を問い続け、捜し続けたのがゴーギャンの一生だったように映る。

 東洋でも「人間とは何者か」、が古くから問い続けられてきた。
達磨大師は〈壁面9年〉と言われており、真理を悟るまで岩壁に向かい9年の間ただ坐り続け、考えつづけたという。
悟りを求めて、今もなお仏教は連綿とその道を歩み続けている。
現代の僧も、真理を求めて修行に明けくれている。
だが、時代は激しく変化し、僧たちも四六時中、「私とは?」「生きるとは?」「人間とは?」などと考えてはいられぬ忙しい世界に身を置いている。

 いわんや、平凡なるわれわれは、世の煩雑さにまみれて時を過ごし、また真剣に自己と向かい合うことを恐れるかのように、些事に没頭したり、些細な、つかぬ間の快楽に身をゆだねたりする。
心の声に、いつも耳を傾けてなぞいられぬのが、現代に住む者のごく普通の姿ではある。
しかし、かすかな声は時折、ひょいと顔を出す。

 ”あなたは誰?“  
”何処から来たの?“  
”ここで何をしているの?“

“そして何処へゆくの?”

 いつもの答えが出ない質問に戸惑いもうまれる。
自由な第二の人生。
有り余る時間だ。たまには自由な気持ちで耳を澄ませてみようかと試みたりもする。
誰もがたどる道に、平凡に足を踏み入れた凡夫の60歳代のひと時。
これと言って用事もない雨の日。
若い日にもどれる、懐かしい時間の使い方の一つかもしれない。

“あなたは誰? 何の為にここにいるの?”

 誰ともわからない声が、密やかに、笑いながら、明るく問いかけてくるのが、また聞える。

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