新しい節目

 

2011年が始まりました。おめでとうございます。

 

 まだ私も、年が若く伸び盛りの頃の事です。
新年は、「お正月が来た。新しい年が始まる!」と、気分が高揚した、晴れやかな気分にあふれていた記憶があります。
若さとは、ただそれだけで未来にあふれている季節ですものね。

 いつの頃からでしょうか。
少し落ち着いて、中年を過ぎた頃でしょうか。
新しい年を、冷静に、すこしばかり現実的な目で世の中を見ることができるように、なってからの事です。

「めでたさも 中くらいなり おらが春。」(小林一茶)

という俳句と出会いました。
一茶52歳の句です。
「お正月を迎えて、新しい年が始まるんだな。
お正月だからおめでたいが、特別に今年になって、素晴らしい明日が始まるわけでもない。
かといって、お餅も食べることができないほど困窮しているわけではない。
よくも、悪くもない、ごく普通のお正月だなあ・・・・・」
という、一茶の清貧な人生が聞えるように当時は受け取っていました。
庶民の暮らしが、春の暖かさのように、まるで日溜まりの中で静かに過ぎてゆくような、春の温くもりを感じたものでした。
なんだか、自分の新しい年と似ているような、そんな気持になったものです。

 確かに、よく考えれば、新しい年だからと言って、古いものが全て打ち捨てられ、希望に満ちた喜びに一新されるわけではありません。昨日と同じように今日がすぎ、今日と変わらぬ明日がすぎてだけにすぎません。
11日を境に、涙が笑いに、貧しさが豊かな生活に、悲しみが喜びに、劇的に日常が変わるわけではありません。
でも、人間は、始めも終わりも判らない、変化のない、のんべんだらりとした一生に満足できる動物ではないことも確かです。
だからこそ、平々凡々な生活の中に、季節の移ろいとともに、人生の節目を作り、節目を境に生き方を見直し、希望につなげる明日にしたいという、明確な、言ってみれば、変わらないからこそ、皆で、 “変わるんだね、変えていかなければね って、思うのかもしれませんね。

 だから、ある期間を区切って、明確に生き方を区分し、ちょうど竹の節のように、人生の出来事をタイムカプセルに詰め込むように、ずっと昔から人々は区切りをつけてきました。
朝と夜を1日の単位とし、月の満ち欠けを1ヶ月とし、地球の太陽に対する周期を1年とし、この1年を人間の歴史を表す単位にすることを2000年以上昔から採用してきました。
そして、それぞれの国で、それぞれの方法で、1年を大きな節として、年の始めを節目とよび、祝することを公の行事とすることでけじめをつけてきたのです。
今では、世界中が、イエスキリストの誕生を紀元とし、西暦という単位で歴史を刻んでいます。
そう、今年はイエスキリストが生れて、2011回目の節目を迎えたのです。

 子供の頃歌った歌がありました。
明治26年に制定された、文部省唱歌です。

「年のはじめのためしとて 終わりなき世のめでたさを 松竹立てて門ごとに 祝う今日こそ 楽しけれ。
初日のひかり さしいでて 四方に輝く 今朝のそら 君がみかげにたぐえつつ 仰ぎみるこそ 尊とけれ。」

 天皇神格化が消滅し、すっかりこの歌も消え去りましたが、歌とともに、メンコ、ビー玉、凧揚げ、歌留多、羽つき、福笑い、竹馬、などを楽しんだ思い出があります。
今のように、豪華な「お節料理」ではありませんでしたが、それでも、伊達巻、紅白の蒲鉾、煮もの等が粗末な重箱に詰められて、お雑煮と一緒に出で来たりして、子供心には、何と豪華な食べ物だろうと思いました。お餅を炭火で焼き、お醤油をつけ、時には海苔や、きなこをつけて食べられることに、誇らしさ、さへ感じたものでした。
飽食の現代では、想像もつかない〈物質的には貧しくとも、心豊かな時代〉の出来事でした。

 一茶の「めでたさも 中くらいなり おらが春。」は、このような、何処にでもある、貧しさを抱えた人々の暮らしを、すこし斜めにみて、ほのぼのと詠ったように、心に語りかけるものでした。
小林一茶という人の生涯は、土蔵に住み、妻と病死、離婚等により別れ、3回も結婚し、幼い子を4人も亡くし、大火で家も焼け、悲惨な生活のうちに病により、62歳の生涯を終えた人でした。
その悲惨さの中にあって、なお自分の生き方を、「中くらいなり・・」と詠んだ心境が漠然とですが、判るような気がします。

 18277月、おおよそ180年前に無くなった最後の一茶の新しい節目は、過去を封じ込めた出発だったのでしょうか、それとも、すこし無理をして、祝ったのでしょうか。
52歳の時の俳句からは、淡々とした、季節とともに、ごく自然に、自然の中に埋没するようにして、歩む人生が見えてくるような気がしてなりません。

 現代に生きる私達も、節目の行事や、考え方は異なるものの、心のうちに人それぞれの新年を迎え、区切りをつけ、新たな出発点にしようとしています。
神社への初詣は、何処も、善男善女でにぎわったようです。

 

 キリスト教会でも新年の礼拝が行われました。
歌われた讃美歌は、次のような歌詞でしたが、まさに新しく区切りをつけ、節目をつけ、決意を神の前に捧げるに相応しいものでした。
新しく出来上がってゆく〈今年という節〉には、是非、今までにない新しい、喜び、感謝、奉仕、など歌詞のような人生が詰め込まれるように、精一杯努力したいものだと思います。

 

 

【教会賛美歌 49番、新年】

 

1、    新しい   年を迎えて

新しい   歌をうたおう

なきものを あるがごとくに

呼びたもう 神をたたえて

新しい   歌をうたおう

 

2、    過ぎ去った  日々の悲しみ

さまざまな  うれいはすべて

キリストに  ゆだねまつって

み恵みが   あふれるような

生き方を   今年はしよう

 

3、        みことばに   はげまされつつ

欠け多き    土の器を

主の前に    捧げまつって

み恵みが   あふれるような

生き方を   今年はしよう

 

4、        自分だけ   生きるのでなく

はらからと  手をたずさえて

み恵みが  あふれる国を

地の上に  来たらすような

生き方を  今年はしよう

 

 

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

                              2011年1月吉日

 

 

 

 

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