一休さんと風狂の世界(その1)

 

 とんち小坊主の一休さん、と言えば愛くるしい笑顔と、大人を相手にとんちで愉快なお話を繰り広げ、幼児から、老人にいたるまで、誰にも知られている人気者です。

 「この橋(端)、渡るべからず」や「屏風の虎」、「水あめの毒」など小さな子どもが理解しやすい、大変面白いとんち話を聞いて育った人は、きっと多いことでしょう。

 この一休さんの子ども時代が皆に知られるようになったのは、「一休さんのとんち話」のお話が、そして絵本が愛され、また最近では、テレビのアニメの影響が強かったことが大きいのではないかと思います。

 しかし、長じて、世の中を子どもの純な眼線から離れた、大人の眼で眺めると、「一休宗純」の禅僧としての生き方は、とんち小坊主とはかけ離れた、魅力的な、風変りな、一種の憧れさえ感じさせる世界に大きく広がってきます。
〈頓智小坊主〉が虚構の世界であり、より実像に近いと思われる歴史上の断片的な逸話は、人間臭さがぷんぷんと、漂ってきます。

 【世が世であれば・・・】とよく表現されますが、「一休宗純」さんも、こう言われたかもしれない背景を持っていました。
一休宗純さんは、天皇にはなれなかったかもしれないが、皇族として高貴な人生を送っていたかもしれない、という過去を秘めていました。でも生前は一切語ることも、語られることもなく秘密にされ、死後、弟子たちによって初めて明らかにされました。
それは、〈一休宗純さんは後小松天皇のご落胤である〉、との背景でした。
今でも、京都酬恩庵(一休寺)にあるお墓は御廟所として宮内庁によって管理され、一般の人々には立ち入りも参拝も許されておりません。
たった一人で、500年もの間、ここで静かに眠っているのです。

 「一休宗純」さんは1394年、室町時代に後小松天皇の側室の子として生まれました。
幼名を千菊丸と呼ばれましたが、6歳の時に京都安国寺にて出家させられ、周健と名のります。
出家させられたのは、父親の後小松天皇は北朝方でしたが母親は南朝方の公卿の娘だったからだと言われています。
早くから漢詩の才能に秀でており、15歳の時には洛中で評判が高い人になっていました。17歳の時に宗純(戒名)と名乗るようになります。

 21歳の時に師が没し、宗純は自殺を図ります。しかし、未遂に終わり新しい師を得ます。京都大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)です。
22歳の時に〈公案〉に対しての悟りに、師から認可状を与えられ、初めて号を“一休”と与えられ「一休宗純」が誕生します。
随分遠回りしましたが、そうだとすると、小坊主一休さんは存在せず、架空のお話しになる訳ですね。

 さて、その後も修行を続けた一休宗純さんはある時、琵琶湖の岸辺につないだ船の中で坐禅をしていて、鴉の鳴き声を聞き、更に悟りを開いたと言われています。
31歳の時でした。そして師が印可状を渡すと言ったのを断り、【風狂】の世界に入りそれ以降は、詩、和歌、漢詩、書画、そして奇怪な行動の【風狂の生活】を送ります。
一休宗純さんが自分でも言い、また人も【風狂の人】と言った数々の逸話がかたられたのも、この頃からだったと思われます。

 仏門にある僧侶は、お酒も飲みませんし女の人も近づけません。肉も魚も食べません。厳しい戒律の中に身を置き、高潔な生き方の中で、人々を救うための修行に明けくれていました。
ところが一休宗純さんは違いました。お酒も飲めば、肉や魚も平気で食べます。女犯の罪も犯します。晩年には森侍者と言う側女もいたし、実子を弟子として側に置いたりしました。

 奇怪な行動も行います。よく知られたものでは、お正月に髑髏を持って歩き“ご用心、ご用心”と告げて歩いたり、朱色の鞘の木刀をさして街中を練り歩いたりしました。
一休宗純さんが残した言葉は〈狂雲集〉などにありますが、有名なものに次のようなものがあります。

『門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし』

『釈迦といういたづらものが世にいでて おおくの人をまよわすかな』
『女をば法の御蔵と云うぞ実に 釈迦も達磨もひょいひょいと生む』

 およそ、名僧、高僧と呼ばれるような格調高い生き方をすることもなく、金襴の袈裟を着て、住持としての名誉を求めることもありませんでした。
1481年、88歳で亡くなりましたが、最後の言葉は“死にとうはない”だったと言われています。

 ところで、なぜ一休宗純さんは【風狂の人】と呼ばれたのでしょう。なぜ、自分から破戒僧とも受け取れる行動をしたのでしょう。そして、死後、100年もたって、江戸時代になってから、そして今日に至るまで、なぜ、民衆の人気が高いのでしょう。本当に、不思議な禅僧です。

 人によって見方は異なるでしょうが、私には【風狂】の、その生き方の裏に隠された、真面目な人間性と、悲しみが、たまらなく魅力的に見えてくるからです。
【風狂】という言葉は普通あまりいい意味では使いません。〈気が狂うこと〉とか、〈狂人〉、また〈風雅に徹し他を顧みないこと〉などの意味に使われます。

 一休宗純さんはそうではなく、きっと後世の人がとらえたと同じように、次のような意味で使ったに違いありません。
〈風狂とは、禅宗において中国から伝わってきた、戒律などの破戒的な行為を、否定的にとらえるのではなく、常軌を逸した行動は、悟りの境涯をあらわして肯定的にとらえたものなのだ。これは中国の、普化という高僧にもあったことである〉と。
その肯定的な意味合いとは、私には、一休という名前に隠されていると思えてならないからです。

 ところで、日本における禅宗は3つあります。臨済宗、黄檗宗、曹洞宗です。
臨済宗、黄檗宗は〈公案禅〉と呼ばれ、課題(公案)を出され、この答え(真理)を求めて坐禅をし、悟りを得るのだと言います。
曹洞宗はこれに対し、無念無想ですべての邪念を捨て、只、坐ることにより、仏性すなわち〈真理に目覚めた人〉に近づくのだと言われています。〈只管打坐〉と言われている坐禅です。
一休宗純さんは、臨済宗でした。ですから修行中、師から公案をもらい、坐禅に励みました。そして、この公案の答えに合格し華叟宗曇から認可状をもらって一休の号を与えられました。
この時に師の華叟宗曇が宗純さんに与えた公案が
【洞山三頓の棒(どうざんさんとうのぼう)】というものでした。

 これに対し、宗純さんが坐禅をし、修行して出した回答が、
【有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ帰る一休み(ひとやすみ)雨ふらば降れ 風ふかば吹け】というものでした。

この答えにあった、一休み(ひとやすみ)から、認可状をもらう時に一休(いっきゅう)という号も与えられました。すなわち、一休という名前は公案の答えを生涯背負ったものということができるかと思います。

(その2へ続く)

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