一休さんと風狂の世界(その2)

 

(その1から続く)

 さて、公案についてですが、禅問答というものは難しく、決まった答えがある訳でもありません。また、修行僧ですらなかなかよい答えができず、簡単には認可してもらえないと聞きます。

この一休宗純さんの公案とその答えについてどう理解すればよいか、が若い日の一休宗純さんの考え方の秘密を解くカギになりそうです。

その、公案そのものについては中国から伝えられていますので、誰にでも判り易いのですが、答えの解釈については一休宗純、華叟宗曇の二人からは何も残されていません。ですから、答えに対する解釈は、一休研究家の解釈で勉強するか、または、素人が勝手に考える浅はかなもので満足するかくらいになってしまいます。

自分なりのものを見つけるのもまた、楽しいのかもしれません。
そんな中途半端な見方ですが私流にはこんな解釈が成り立ちます。

まず、公案ですが

【洞山三頓の棒(どうざんさんとうのぼう)】

とは、次のような意味です。

『唐の時代に、雲門禅師のところに何千kmも離れたとこるから、洞山という僧が参禅のため訪ねてきた。
そこで、雲門禅師は洞山に尋ねます。「お前はどこにいたのか」。
洞山は答えます。「査渡(さど)におりました」。
雲門禅師は洞山に再び尋ねます。「この夏は何処で修行したのか」。洞山は答えます。「湖南の報恩寺です」。
雲門禅師は三度洞山に尋ねます。「いつ、そこを発ってきたのか」
洞山は答えます。「825日です」
雲門禅師が言います。「お前に三頓(60)の棒叩きを与える」
翌日、洞山は再びやってきて、師に問います。
「昨日、三頓(60)の棒叩きに遭いましたが何か過ちがあったのでしょうか。私にはわかりません」
雲門禅師が叫びます。「この穀つぶしめが。江西湖南をそのようにうろつきまわっていたのか。」
ここにおいて洞山は大悟(悟りきること)した。』
これが公案である。お前は、何と答える。と質問され、坐禅をし、時には何年も考え続けるのです。

どうでしょうか。公案(課題)の意味は何となく判りますが、これに対し、禅でいう悟りになる“答え”はなんなのか、こう質問されたら何と答えていいのやら、私たちにはさっぱりわかりません。

一体なんと答えていいのでしょう。
宗純さんの答えは次の言葉でした。

【有漏路(うろじ)より
  無漏路(むろじ)へ帰る一休み(ひとやすみ)
         雨ふらば降れ 風ふかば吹け】

う〜ん、これは難しくて判らない。
というのが本当のところでしょう。

臨済宗の何人もの高僧が挑んだ解釈です。
解釈はいろいろあり、どれも正しいように思えるかもしれません。
どれも、一休宗純さんの真理には、ほど遠いのかもしれません。
しかし、なんとなくこの言葉に惹かれ、どうしても一休宗純さんに近づきたいと考えてしまいます。
そこで、自分流の解釈をすることになります。
こんな、勝手な解釈ができました。
有漏路(うろじ)というのは、迷い(煩悩)の世界のことです。
これにたいし無漏路(むろじ)というのは、悟り(仏)の世界のことです。

「お前はどこにいたのか」;有漏路(うろじ)におりました。
「この夏は何処で修行したのか」;有漏路(うろじ)と無漏路(むろじ)の途中です。
「いつ、そこを発ってきたのか」;有漏路(うろじ)をでるときです。

 

つまり、こう自分流の解釈をしました。

公案(課題);《人間とは何者か、お前は答えてみよ。》という師の質問が出されたと宗純は考えました。
宗純の回答;《人間とは、悟り(仏)の世界に帰るほんの短い間、迷い(煩悩)の世界であるこの世にいる、仮の存在である。すべては空である》、と答えた。

仮の世で一休み(ひとやすみ)している存在、それが【一休宗純そのもの】なのだと、悟ったのではないでしょうか。

一休さんが生きた時代は激動の時代と言ってもいいかもしれません。華美な室町文化が花開き、一方では戦乱が続きました。一休宗純晩年のころには、11年にも及ぶ、応仁の乱がおきており、戦国時代へ移り変ってゆく時代でもありました。

民衆は苦しみ、仏教も形式ばかりが重んじられ、僧侶は堕落していたともいわれます。

悟りを得た、一休宗純さんが【風狂】の生活を送ったのは、このような時代に、形骸化し、権威ばかり重んじ、自己の保身と富に眼が眩んだ仏教界に、痛烈な批判と、行動を通じての抵抗をしたのかもしれません。

 

凡人には到達できない、“一切は空である”と悟りを得たからこその、清貧に徹し、物欲に溺れない、しかし一切の形に捉われない破天荒の生涯を送ったのかもしれないのです。

だからこそ、〈絶対の悲しみ〉は、形を変えて、短歌や、書や、逸話に残されたように思うのです。

 

没して後、江戸時代になって意外なところから一休宗純さんが見直され、評価されました。

茶の湯です。茶室に文人、墨客の掛け軸を飾ることが流行し、一休宗純さんの掛け軸が愛好されました。

非常に能筆であり、沢山の書を残したと言われておりますので、人気が集まりこぞって粋人たちに書画が用いられたということです。

また、同時に戒律や、形式にとらわれない人間臭い生き方は多くのとんち話を生み出す元となり、“一休さんのとんち話”が出来上がりました。

“一休さん”として、民衆に再び人気が出てきました。

 

さて、団塊の世代、と言われる私たちには、小さい頃から教えられてきた正義があります。「真面目に、コツコツ努力をし続けること。競争に勝つためには、人の、倍も、3倍も、学び、そして働くこと。そうすれば、幸せと、繁栄が与えられる。豊かさとは、正義に与えられた冠である」そう教育されてきました。そして一生懸命に走りつづけてきました。

 

経済大国になった日本、三度の食事さえままならなかった時代から、飽食の時代へと、豊かさを謳歌するまでに成長しました。確かに、勤勉が国の豊かさと、個人にも物質的満足度を与えてくれるようになりました。

でも、団塊の世代の人々は、心の中に穴のあいたような空虚さとともに、何か違和感を抱えているように感じてなりません。教えられた正義は本当だったのか、という疑問の渦の中で、迷っているように見えるのです。

 

【風狂の人】は人の世を、透徹した眼で見、鴉が鳴くのをきいて、大悟しました。そして、こんな歌も詠んでいます。

 

“おさな子がしだいしだいに知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき”(一休宗純)

 

年を重ね、常識をより深く学び、賢明に生きようとすることは、逆に、枠にはまった、がんじがらめの、頭でっかちの人間を作り、心を失い、〈真理から、遠ざかってゆくこと〉だ、と言っています。

【風狂】から学びなさい。
一休宗純さんが笑っているように思えます。

 

(終わり)


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