温もり

 雪が降っている。小さな女の子が一人、赤い大きな毛糸の帽子を被り、赤い手袋を見せてこちらを真直ぐにみている。かすかに微笑んでもいるようである。
背景がない絵には、降る雪と、顔と、手袋。
たったこれだけしか描かれていない。

しかし、童話の世界に引き込まれてゆくように、安心感と、温もりを見るものに与える。
輪郭線がない水彩画は、滲んだ絵の具が、母の体温のように、そっと心の中に伝わってくる。
つばひろの帽子を被った女の子。皆で遊ぶ子どもたち。
花や小鳥の世界。

髪をなびかせツンとすました女の子。
どの絵も優しさと、平和に満ちている。
じっとみているうちに、何気ない絵がなんとも言えない不思議な安心感に包まれ、見知らぬ世界に連れて行ってくれる、そんな感覚にいざなってくれる。

どうして、こんなに心に優しく、語りかける温もりがあるのだろうか。

 子供を見つめ、「こどもの幸せと平和」をテーマに描き続けたという、絵本画家の絵である。

画家の名は、いわさきちひろさん。
名前だけはずっと以前から、頭の隅に見え隠れていたが、じっくりと見つめなおし、その生涯を知ったのは、この頃の事である。

1918年、福井県に生れた。
“涙とともにパンを食べたものでなければ、パンの本当の味は判らない”
いわさきちひろさんの、ぬくもりのある絵も、恵まれ、幸せに包まれた生活から生まれたものではなかった。ちひろさんの優しさや温もりもまた、寂しさや悲しみ、辛さから滲みだす苦が、時間をかけ、甘く熟した果実として初めて生まれたものだった。
戦争に蹂躙され、傷つき、もがいて、ヒューマニズムに目覚め、苦闘の中から生まれたのが、あの膨大な子供達に愛される絵となったのである。

 画才に優れ、注目を浴びる少女期を過ごすが、20歳の時両親の強い勧めに抵抗できず、好意を持てぬ相手と無理やり結婚をさせられる。夫は満州大連に勤務したため、嫌々ながら新婚早々見知らぬ地、中国へ渡る。
しかし、相手を好きになれないまま、形だけの結婚生活を送るが、満州へ渡った翌年、夫の自殺という不幸な出来事が起こり、帰国せざるを得なかった。
もう二度と結婚はすまい、と決心したちひろさんは再び絵の勉強にもどる。
書にも秀でていたので、油絵とともに書も習い、女一人生きてゆく道を“画家が無理でも書家にはなれる”という師の言葉に励まされ、研さんを積む。
 
 1944年、25歳になったちひろさんは、女子開拓団に同行し満州に再び渡る。
だが、戦況が悪化し、同年帰国せざるを得なかった。
一人、東京にもどったちひろさんを待っていたのは、米軍の本土への空爆であった。空襲により住まいを焼かれ、仕方なく長野県松本市の母の実家に疎開し、そこで終戦を迎える。
ここでちひろさんは、戦争の悲惨さ、軍国教育に翻弄された個人、平和、人間の尊厳などに、あまりにも無知であった自分を知り、宮沢賢治のヒューマニズムに深く傾倒していったという。

 27歳の時、戦前、戦中期を通じて、一貫して戦争反対を貫いたと主張する日本共産党に感化され入党すると、党宣伝部の芸術学校に学ぶため、家族に内緒で一人上京した。
東京では、人民新聞の記者をしながら絵を学んでいたが、この頃から、仕事としての数々の絵を手掛けるようになり、画家になる決心をする。
その当時より、アンデルセンにも深い思い入れを持っていたが、生涯を通しての「子供の幸せと平和」への想いは、宮沢賢治の小説とともにとともに、憧れのアンデルセンの童話がつよく影響している、とみてよいのかもしれない。

 30歳の時、党員であった7歳年下の松本善明氏と結婚するが、松本氏は法律家を目指した学生であり生活費の蓄えとてなく、貧しいままの新しい出発であった。二人だけの結婚式にはこんなエピソードがある。
貧しかった二人であったが、ちひろさんは、ありったけのお金を使い、花を買った。そして食卓の上に花を飾り二人きりの結婚式を祝ったという。

 やがて長男が生まれるが、日々の生活を維持するために、ちひろさんは働かざるを得ず、やむなく両親に子供を預けた。
当時両親は長野の開拓団に入っていたが、ちひろさんは、預けた子供会いたさに10数時間をかけ、毎週のように信州へ向かったという。
 一家がようやく親子3人で一緒に暮らせるようになったが、画家としての仕事の多忙さは変わらなかったという。一人机に向かい仕事をするちひろさんの背中に、まるですがりつくようにして一人遊び、そのまま眠り、幼い子供は育っていった。この頃の仕事は、ポスターや雑誌の絵、教科書のカットや表紙絵がその主なものであった。

 1956年、38歳になってから初めて絵本画家として活動するが、最初あまり評判は芳しくなかったという。絵があまりにも少女趣味過ぎて、リアル性に欠け、かわいらしすぎる、というものだった。深い悩みの淵にあったちひろさんは、1962年、44歳の時、油彩画から水彩画に転向し、次第に独自の世界を開いていった。絵本画家、自由法曹団弁護士の妻、母親など多忙な中で、いま私達が目にするぬくもりのある独自の画風を確立していったが1974年、55歳の若さで、まるで急ぎ足で駆け抜けるようにしてこの世を去った。

 なんの変哲もない、ただの石ころだと思っていたのものが、突然、〈これは月の石だ〉と言われると急に、異彩を放って、目の前に新しい未知の世界をひろげたりする事がある。
いわさきちひろさんという人の、足早に去って行った生涯に触れた時、残された絵に見出すのは、いままでとは違う光の、ほのかな輝きである。
愛とか、平和とか、幸せ、とはまた異なった、ほのぼのとした温かさである。

 童話で言うなら、「シンデレラ姫」や、「白雪姫と七人の小人」のように、華麗で美しく、時に切なく、そして約束された幸福が待つ、ハッピーエンドのお話とは違う、人間への愛おしさに溢れる、心への訪れである。
それは、オスカーワイルド作「幸福の王子」にあるような、冬を暖かい地方で過ごすために旅立つ事をあきらめ、冷たく王子の足元で死んでいった燕のように、またアンデルセンが「マッチ売りの少女」で語りかけたように、雪の中で寒さに震え、マッチを一本一本灯し、思い出を小さな光の中に浮かべ死んでいった少女のように、悲しみを包み込みながらも、そこはかとなく漂う温もりであった。

 温かさ、しばしばそれを私達の心の奥からまるで宝石箱から取り出すようにして掌にそっと握りしめる。
もうずいぶん昔の事だった。同僚の母の葬儀に行った時である。葬儀が終わり喪主の挨拶に移った。同僚が立って挨拶をした。暫く無言の時が流れた。
ようやく開いた口からは、“母は、苦労をするためにこの世に生れてきた。そんな一生だった・・・・・・・・・”そう呟くと嗚咽が漏れた。また、沈黙が暫くの間流れた。それから、ごく短く参列の感謝の言葉を口にし、挨拶を終えた。

 ごく平凡な人生を楽しく、満足に歩んでいる、そんな毎日に囲まれた同僚だった。明るく陽気な看護師の奥さんを持ち、二人の子供を大学に送り出し、経済的にもまったく困らず、ゆったりと暮らしていた。何処にも不幸の影なぞ見当たらなかった。羨ましがられるほどの幸せに満ちた家庭だった。他人の本当の姿など知ろうとすべきではないし、また判ろうはずがないが、少なくても彼の人生からは、表面的には幸せだけしか見えてこなかった。
意外に思えた彼の母への言葉には、しかし、悲しみとともに家族を思う温もりがあふれていた。

 誰にとっても母は掛け替えのない唯一の存在である。
平穏に見える人生もまた、数々の苦難の連続である事を母の人生そのものが教えてくれた。同僚もまた、母の悲しみを包み込んだ温もりに涙したのに相違ないと思った。

 少年時代を思い出す。同僚の挨拶と、まさに同じように我が母もまた〈苦労をするために生れてきた〉という言葉が、そのままあてはまるような人生であった。
聞いても決して多くを語ろうとしなかったが、断片的につなぎ合わせた母の幼少期は悲運の連続であったと言える。
旧家に生れたが、生れると直ぐに母親と死に別れ、物心ついたときには家が没落していた。父親と二人、うらぶれた借家で暮らしたが、学校に満足に行く事も出来なかった。それでも学ぶ事が好きで、人に認めてもらえるような成績を収める事が出来たという。
なんとか尋常小学校の6年を終了した時、これで終わってはもったいない成績だからと人も勧めてくれ、本人もさらに上の高等小学校へ行くことを望んだが、貧しさと、父親の死で幼くして一人ぼっちとなってしまい、学業は断念せざるを得なかった。その後、相当年の離れた異母兄に引き取られ育てられるが、その頃の事はついに生前、一言も語る事はなかった。余程の辛い時期であったろうことが容易に想像された。

 苦しみから逃れるように、職人の父と結婚するが幸福の女神はなかなか微笑んでくれなかった。
もし神様がついていたとしたら、それは貧乏神という神様だったのではないかと思う程である。
戦後焼け野原となった土地を借り、素人作りのバラックに住んだ。周りも同じような境遇に置かれた、戦後の混乱期に取り残されたような生活に、肩を寄せ合うようにして生きている人々ばかりであった。
しかし、不幸に手加減はない。追い打ちをかけるような出来事が起きた。
私が小学校3年の時である。弟はまだ未就学である。
父が突然、喀血をした。結核であった。
当時結核は不治の病と言われていた。父の兄二人も結核で亡くなっていた。
直ぐに隔離病棟へ入院だった。貧しい生活は、更にどん底へ落ち込んでいった。
小学4年の姉が昼間の母代わりとなり、弟2人の食事を始め掃除、洗濯、なんでもやった。手に職を持たない母は、労働力だけが資本であった。
しかし女一人の労働ではたかが知れている。父の入院費もある。
どんなに必死に働いても、食うや食わずの毎日であった。
疲れて帰る母は泥のように眠る以外に休息を知らなかった。
後年、“働けど働けどわが暮らし楽にならざりじっと手を見る”
という石川啄木の歌が骨身にしみるように理解できたのもこんな経験があったからだと思っている。
だが、そんな貧しさにあっても家の中は笑顔が絶えなかった。
母の明るさがあった。優しさがあった。
貧しさに負けない家族の絆があった。

 でも鮮明に覚えている事がある。
小学校5年の時だった。当時小学校にも給食が導入されていた。
毎月、給食費を封筒に入れ担任に提出するように決められていた。
母は学校に提出するお金は、なんとか工面し期限に間に合わせてくれていた。
でも、どうしても期限に間に合わない月もあった。そこで母は、“先生に今月は提出日に間に合いません。お金ができるまでもう少し待ってください。って頼んでちょうだい。ごめんね。”と、すまなそうに私に言った事がある。
担任は年配の女の先生であった。
私のひがみであろうが、貧乏人の子供を見下し、お金持ちの子供を贔屓にするようなところが、子供心に感ぜられる雰囲気があった。
 例えば算数のテストがあった時の事である。そのテストの、ある難しい問題で、正解はクラスで二人しかいなかった。お金もちで優秀な生徒と、貧乏人の子である私の二人である。机は隣同士であった。先生は私の名前を呼ぶと黒板の前に立たせ、計算式を書かせ、答えを導き出した理由をクラス全員の前で、説明させたのである。
間違っていないとわかると先生は言った。

“ふ〜ん。隣を盗み見たんじゃないのね。”
それだけだった。
よく出来たとも、みんなに正しい説明ができたとも言わなかった。
隣のお金持ちの生徒の答えを盗み見たのでは無いようだ、と思っただけの事であった。

 何度か似たような事があった。クラス委員に選挙で選ばれても、何ヵ月も委員バッチを渡さず委員である事さえ無視した事もある。しかし、このような事があったなどと母には絶対に言わなかった。理由はうまく言えないが、聞いたら母が悲しむような気がしたからだった。

 給食費の事は、先生に遅れることを許してもらうように頼むことを最後までしなかった。集金袋を集める時“給食費を忘れた人、手をあげなさい”というのが常であった。最初の2,3日は何人もいて手を挙げ、明日持ってくることを約束させるだけだったが何日かすると、給食費を収めてない人は僅かになった。
皆、貧しい家の子供だった。先生も癇癪を起したのだろう。手をあげなさいから、“また忘れたの。立っていなさい”に変わった。
いつまでも立たされた。

それでも、母に言われたように「忘れたのでなく、もう少し待ってください」と頼む事はしなかった。何となく「先生は判ってくれない」と心を閉ざしていた。最後には鞭で頭を叩かれた。
それでも忘れたことで押し通した。

学校であった事は絶対に母に言わなかった。毎日の食べるものに事欠き、給食費が遅れることは、いたしかたないことだとよく理解していたし、なによりも母の悲しむ顔を見たくなかったからである。

 やっと給食費が持っていける日、“先生が待ってくれているから、急がなくても大丈夫だよ”と笑って母に言った。
安心したような母の顔は何ともいえず温かく胸に染みた。

 暫くして、結核の特効薬であるパスが出始め、父の病もようやく完治した。
だが貧しさは相変らずであった。
人並みの生活を手に入れるまで、口に出して言えない苦労にどれだけ耐えたか、母の苦労がしのばれた。
が、自分は苦しくとも、いつも家族の幸せを願い、知人の不幸に目をそむけず一所懸命であった人だった。
あの母の温もりは、寒さに震え、空腹に泣き、冷たい視線に耐え、貧しさに身をさらした人だけが持つもののように感じてならない。

 長野県安曇野に、広大な庭をもつ素敵な美術館がある。
ちひろさんの息子さんが館長をしている『安曇野ちひろ美術館』である。
ゆったりとした美術館には子供達が自由に絵本を読めるスペースまである。
「子供の幸せと平和」をテーマに描きつづけた、いわさきちひろさんの温もりがあふれている。
“人は、冷たさを本当に知ってこそ、肌を通して、真の温もりを伝えることができるのですよ“・・そんなちひろさんの声が聞こえてきそうな美術館である。
歩けるようになったら、二人で行こう、と妻と語り合った。


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