孤高の人の美学に触れて

 

 日本人独特の感情として、よく引き合いに出されるものに、〈判官贔屓(ほうがんびいき)〉と呼ばれるものがある。これは日本人なら誰でも知っている源義経の物語からきている言葉である。

 

 幼少の頃、父、源義朝が戦で平家に敗れ、逃避行の途中、母、常盤御前の命乞いの舞により助けられ鞍馬寺に預けられる物語。
少年となり、まだ牛若丸と呼ばれた元服前、京の五条の橋の上で弁慶と戦った物語。そして成人し、源氏と平家の戦いで、華々しく活躍し有名な「ヒヨドリ越え」を行い、大勝利を収めた武将、九郎判官、源義経。
数々の武勲を立てながら、兄、頼朝の恨みをかい、奥州平泉で滅ぼされた悲劇の英雄。
その義経に同情する民衆の気持ちは、転じて、弱者、敗者に同情し、応援する感情として、民衆の心の中に深く浸みこみ、そんな心の内を、日本人は〈判官贔屓〉と呼んで、もののあわれ、とともに大切にしてきた。

 今でも、日本人の心の内には〈判官贔屓〉が息づいている。
一方で昭和になってからであろうか、「美学」という言葉が市民権を得てきた。普通、美しい、という表現は、多く外観に対し用いられるが、「美学」という表現には、むしろ外観的な要素は全くない。
内面のみ、目に見えないものに目を向け、自分が真実だと思うところに、限りない全人的美しさを見るのである。
そして美しさの基準も、まったくの個人の主観によるところが大きい。
例えば【男の美学】と言えば、他人が、どう思おうと、自分にはその生き方なり、考え方、が美しいと思うから、認められようと認められなかろうが、悲運の人生であろうが、この人は【男の美学】を貫いたのだ。・・とそんなふうに使ったりする。

 「美学」とは、一般的に、美しさに関する独特の考え方や趣味を言い、特に男の生き方の中で〈男の美学〉という使われ方がごく普通かもしれない。
特に他人には、滅びに向かっているとしか映らないような、〈滅びの美学〉(こう言う言葉があるかどうか知らないが)に突き進んでゆく男の生き様は、〈判官贔屓〉そのもののように、映ってならない。

 

 ここに一人の魅力的な画家がいた。
生前は、まったくの無名の画家と言える、田中一村(本名、田中孝)である。
明治41年(1908年)彫刻家の父の長男として栃木県に生れ、69歳の昭和57年、(1977年)日本の最南端の奄美大島で画家として認められないまま、孤独の生涯を閉じている。
神童と呼ばれ、若くして水墨画にその才能を発揮した。7歳の時には児童画展で天皇賞もしくは文部大臣賞(詳しくは判っていない)を受賞し、10代では、蕪村、木米らを模した水墨画を自由に描いたという。
1926年、18歳にて東京美術学校(現東京芸大)の日本画科に学ぶが、父の病のため中退。同期には東山魁夷がいた。
その後、家族を養うため水墨画を描いていたが、従来の水墨画を捨て、日本画にもどるが、画壇からは不評であった。
日本美術展覧会(日展)、日本美術院展(院展)に何度も応募するが落選を繰り返す。有名になりたい、名の売れた画家になりたいという夢が強かったと言うが、中央画壇で認められることはなかった。
 50歳の時に出品した作品は、自分の絶対的自信作であったが、これも落選。東京美術学校の同期生は、すでに審査員になっているものも多かった。
有名になりたい、という田中一村の自負心は完全についえた、と言っても良いかも知れない。

 彼のエピソードは少ないようだが、このような話が残っている。
「最後の日展に失敗した時のことである。この時に、実妹に対し、落選した応募作品を写真に撮れないか、と相談があった。ちょうど白黒フイルムが一枚だけ残っていたので、彼にこれでいいかと聞くと“それでいい”と一村は言う。
実妹は何の為か一向に判らなかったが、とにかく撮った。
すると、一村さんは、その場で、その絵を鉈で粉々にして、燃してしまったという。妹が本当に少ない遺品を整理した時に、出てきたのがこの白黒の小さな写真であった。」

 中央画壇に失望した一村さんは、すべてを捨てた。
そして、一人、日本の最南端の奄美大島にわたる。
生計のため大島紬の染色工になるが、無口で、あまり他人と交わることはなかったという。
余った時間はただ、ひたすら絵を描いていたという。下着のパンツを一枚だけ付け、絵の前に正坐する田中一村さんの写真を、たった1枚だが見た。
それを見ると、もう有名になるために絵を描くという姿勢ではなく、好きな絵を、ただ描く、それだけのために生きている。そんな達観した笑顔があった。貧しい生活も、やせ細った身体も如何にも満足げである。
 奄美大島に来てから描いた花鳥画は、自然を愛し、植物や鳥を鋭い観察眼で、精緻に描いた、いかにも熱帯の日本画、と呼ぶにふさわしい大作が何枚もある。
このほか、村には、田中一村さんが描いた、村人が亡くなってから家に飾るための遺影がどの家にも大切に、残されている。貧しかった村では、写真にして遺影を飾ることができなかった。そこで、絵で代用をした。
 田中一村さんは頼まれれば、これらの遺影を誰にでも描いたという。神童と呼ばれ、画家としての将来を期待されながら認められず、外側からだけ見れば、悲運の人の生涯であった。
だが、そこに見えるのは、男として、人間として、最南端の島に渡った〈滅びの美学〉に徹した、幸せな孤高の人の生涯である。
中央画壇で認められたいと、悪戦苦闘し、夢破れて、俗世間から離れ、一人自分の志を守り、静かに去って行った一人の無名の画家。
判官贔屓の日本人が強く抱く感情が、余計に残された絵に、強烈な刺激を与えるのかもしれない。
その、人生に美を感ずるのかもしれない。
 おそらく、行くことはもうできないであろうが、奄美大島にある、「田中一村記念美術館」で、日本画家、田中一村さんの、男の美学に触れてみたいものだと、つくづくと思う。

 そうだ、一村の絵「奄美の杜」は黒糖焼酎のラベルになっているという。
お酒は残念ながら飲めない身体になったが、是非、「奄美の杜」の黒糖焼酎を手に入れて、そのラベルを眺め、余韻に浸ってみようか。
若山牧水さんも詠っていた。

「しらたまの はにしみとおる あきのよは、さけはひとりで のむベかりけり」・・・・・と。

田中一村さんが、牧水さんのように酒好きだったかどうか、記録は残っていない。




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