まっとうな暮らし

 

我が町は田舎である。その田舎町にも文化施設が少数だが、いくつかある。

そのうちの一つが、郷土博物館である。ある日、その博物館を訪ねた。

 

郷土博物館の中は、賑わいと、さすような明るさの外の世界から切り離されたように、静けさに満ちていた。まるで、美術館で、絵画を楽しむような落ち着いた雰囲気と、時間が止まったような空気が流れている。

柔らかな照明に照らされて、和紙で作られた人形が、語らい、笑い出すように、100体以上もの様々な姿で浮かび上がっていた。

江戸の庶民の生活がすぐそこに、手が届きそうに再現されている。

人形の背丈は15cm20cmくらいであろうか、和紙で見事に再現され、今にも動き出しそうである。

 

博物館の入り口には『創作和紙人形で描く〈江戸の物売り〉展』と、あった。

丹念に仕上げられた、人形や衣服、身振り手振りの巧みさ、天秤棒や笊などの道具類をしばらく眺めていたら、自分だけの世界に入り込み、周囲がかき消されていくような、不思議な時間が流れ始めた。

 

賑やかなざわめきが、ひたひたと押し寄せてくる。物売りの声が聞こえる。

長屋の喧騒が聞こえる。犬が鳴いているようだ。

魚屋が天秤棒を担いでかけてくる。おかみさんが笊を持って、飛び出してきた。【おさつ、の丸揚げ売り】屋さんの声を聞きつけたのだろうか。

腹掛けに素足で、草履履きの【西瓜の切り売り】が、夏の陽を浴びながら路地をのんびりと歩いている。

杉皮の庇の下で、四角な箱を首から提げ、菅笠をかぶった「門付」のようにたたずんでいる物売りがいた。傍の解説には【傀儡師】と書いてある。

解説には商人の説明書きがある。丹念に読み始めた。

 

〈首掛芝居とも呼ばれる大道芸人のことで、人形浄瑠璃や文楽のルーツになったともいわれている。笊で豆人形を覆い、その笊をあげると豆人形が変わるという手品のような仕掛けになっていた。箱に紐をつけ門口に立って「おぐらやま」という歌を唄いながら箱から小さい操り人形を一つ二つとりだし、歌にあわせて動かした。

最後に、山猫というイタチのようなものを出して、なにやらわめいて終わることから、「山猫回し」とも呼ばれた〉

 

きっと、軒の傾いた長屋を一軒、また一軒と回っては、一文、二文という僅かばかりの銭をもらって生活の糧としていたのだろう。

江戸時代、町人は自分で店を構え、お客を店で待って商売するのではなく、天秤棒や屋台までも親方や、本締めから借り、ほんの僅かな元手を頼りに、その日の糧を得ていたのが普通だったといわれる。

「物売り」とよばれ、生活用品から、娯楽にいたるまで、独特の節回しで江戸の町を朝早くから、日が暮れるまで流して歩いた。

 

今でも名前だけ聞いて容易に想像がつくものもあれば、解説を読まなければ、さっぱりわからない物売りもある。

たとえば【冷水売り】という物売りがあった。

時代小説に出てきて、おぼろげながら記憶の片隅に残っているが、時空を超えて出会いたいと思っていた商売である。

解説によればこんなふうに書いてある。

 

〈5月頃になると、夏場に限って「ひゃっこい、ひゃっこい」といいながら、素足に草履、片肌を脱いだ水売りが冷水を売り歩いた。

冷たい水を二つの手桶に入れて天秤棒で担いでやってきた。

前の手桶には茶碗や、寒晒しの白玉を入れた小型の屋台で「瀧水」「冷水」などとかかれた扇形の看板がとりつけられていた。白砂糖と寒晒しの白玉を加えて一椀四文であったが、注文によっては砂糖を増量して売っていた。上方では「砂糖水うり」と呼ばれることもあった。〉

 

冷水売りと、しつらえた台に腰掛けたお客の町女が生き生きと話をしている。庶民の日常が緩やかに立ち上がってくる。

山本周五郎の世界がめくるめくように揺らいでいる。

どの町人も、その日暮らしであったが、何とか今日の日銭を得て、お天道様(おてんとうさま)に恥じないように稼いで来た。

 

長屋に帰れば、女房が、こどもが、隣の八っつんが、熊さんが、いる。

井戸端には、ばあさんが麦飯をといでいるかもしれない。

貧しくて、なにもかも洗い流すような生活である。

“江戸っ子だってねー。そうさ、神田の生まれよ! こちとら宵越しの金はもたねぇんだ。ぱっと行こうぜ。ぱっとね。”

そんな啖呵の一つも聞こえてきそうである。

 

「まっとうな暮らし」、これが庶民の暮らしだったのだろう。

 

【孝行糖売り、二八蕎麦屋、たたき納豆売り、筆墨売り、砥ぎや、うなぎの辻売り、朝顔売り、七味唐辛子売り、きりぎりす売り、かんざし売り、耳の垢取り、荒神松売り、灯心売り、わらび売り、貸本屋、富の札売り・・・・・・】

庶民は行商に頼り、行商とともに、今日一日だけの生活をたくましく生き抜いてきた。

博物館の中には、昔の「まっとうな暮らし」、が息づいていた。

 

現代にも、この生き方に通じるような「その日暮らし」を達観し、悠々と生きる一人の老僧がいる。

比叡山飯室谷不動堂長寿院住職の酒井雄哉師である。

 

天台宗では「千日回峰行」という荒行がある。

比叡山の中を、お経を唱えながら峰々を毎日歩き回る。

7年間、1千日、距離にして地球一周分にあたるという距離を歩く。

1,000年の歴史を持つ比叡山の修行である。この荒行に挑むには死を覚悟して、死に装束で臨む。この行を成し遂げたものは、大行満大阿闍利(だいぎょうまんだいあじゃり)という尊称があたえられるが、酒井師はこの荒行を2回も成し遂げた大阿闍利である。

記録が残る織田信長の比叡山を焼き討ち以降、2回の荒行を成し遂げた僧は、僅かに12人だという。現代の生き仏とさえ言われるほどだという。

 

「千日回峰行」を2度も成し遂げた、すなわち50歳を過ぎてから14年の間、お経を唱え、歩き続けたことに対し、賞賛の言葉が信徒を中心に多くの人から与えられる。

“すごい人だ。偉業を成し遂げた偉大な人だと”

しかし、そのことについて、人々から褒めそやされると、全く想像もつかない答えが返ってくる。

酒井師がその著書「一日一生」の中でこんなふうに書いている。

 

『「なぜ二度、千日回峰行をしたのですか」って聞かれて、「何もすることがなかったから」って答えると、あきれられるんだけど、本当に他にやることがなかったの。

他にやることがあれば他のことやっていたのかもしれないけれど。

小さい時からちゃんと勉強していないでしょう。いかんせん知識が乏しい。

千日回峰行が一度終わって、また新しいことを何か始めたってすぐにボロが出ちゃう。

「らしく」みせたって、背伸びしたって、焦ったって、あわてたって、人間、自分の「地金」は必ずでてしまうものなんだよ。

ならば、「これだ」と自分で思ったことを繰り返しやっているのがいいのじゃないのって思った。

それでもう一度千日回峰行をしたの。

二度目も、ずっとやっているうちに、気がついたらおしまいになっちゃった。』

 

酒井師は貧しい家に育ち、職業を転々とし、辛酸をなめ、40歳にして得度した僧である。自分は何のために生まれてきたのか、何をすべきかに悩み37歳にして始めて比叡山の門をたたいた。そして、生き仏とさえ言われながら、今も考え続け、赤裸々に、こうも書いている。

 

『今日一日歩いた草鞋を脱ぐ。明日は新しい草鞋を履く。今日の自分は今日でおしまい。明日は再生される。

だから、「一日が一生」とかんがえる。

「一日」を中心にやっていくと、今日一日全力を尽くして明日を迎えようと思える。一日一善だっていい。一日、一日と思って生きることが大事なのと思う。』

『力の限りに咲き誇る桜を見ながら、僕もみんなに楽しまれたり、喜ばれたりするような生き方をしてみたいなあ、そんな生き方ができたら最高だなあ、なんて思ったんだ』

 

1926年生まれの老僧が淡々と語る言葉は、まさに、〈まっとうに生きる〉こと、そのもののように聞こえる。

 

江戸の物売りの生活も、酒井師の生き方も【足るを知る】事を肌身で感じとり、日々の暮らしに、何のてらいもなく、ただ、平凡に息づいているように感じられる。

 

人間とは、自然のほんの僅かな片隅に身を寄せ、他の動物や植物と同じく、やがては滅ぶべき存在であり、わずかな間この世に生を置くはかないものである。

欲望の趣くままに、我が物顔でこの世を闊歩し始めた、独裁者でもなければ、地球のありとあらゆる資源を独り占めに出来るのが人間でもない。

 

【小欲知足】の存在こそ、人間の、まっとうな姿であると教えているようである。

 

古に詠われた道歌は日本人の庶民の心であった。

「足る事を 知りからげして 身を軽く 欲の薄きに 福と寿はあり」

 

こんな道歌もあった。

「破れたる 衣を着ても 足ることを 知ればつづれの 錦なりけり」

 

郷土博物館の中には、たくましく、明るく生きる、江戸の庶民の慎ましやかな暮らしが「江戸の物売り」の人形に息づいていた。



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