命の言葉

一週間が経つ。
来週のカレンダーをめくる。

何気なく読んでいた、毎週の言葉が突然圧倒的な力で迫ってきた。
なんの前触れもなく。
惹かれるように、カレンダーを次々とめくり、一気に全部読み終えた。
今度は丁寧に、言葉を噛締めながら、写し始めた。
また読み返す。

「言葉が命を持っている」・・・・・・・・・・・・。

衝撃は、まだ消えない。
心が波打っている。
人生そのものが、言葉という形となってそこにある。
マザー・テレサという聖人が、たった1枚のサリーを着、粗末なサンダルをはき、自分を捨て、最も貧しい人々に仕えているだろう年老いた姿を想像する。
もう一度、命の言葉を読み返した。

         《 マザーテレサ愛の言葉 》

わたしたちのすることは、大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。でも、その一滴の水が集まって、大海となるのです

 
  貧しい人々と通じ合うことができるためには、貧困とはどういうものかを、知らなければなりません。
でなければ、相手が理解できない言葉でしゃべることになってしまうでしょう。
すべては小さなものです。でも、それを神様に差し上げるなら、途方もなく大きなものになるのです。   
 

単にほほえむだけで、どれだけたくさんの善をもたらすことができるのか、わたしたちは、決して知ることができないでしょう。
微笑みは、人にやさしくふれるようなものです。
わたしたちの命の中へ、神様の真のひとひらを運んできてくれるものです。

 大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。  
 

喜びは、目から、顔から、動作から、輝き出ます。
喜びは、外に向かってあふれ出るもの。
ですから、それを抑えつけてはなりません。
あなたたちの目の中に幸いを見る人々は、自分たちが神様のこどもであることを悟るでしょう。

わたしたちの唇には、いつも微笑がなければなりません。
わたしたちが助けてあげる子どもたち、一人ひとりのために。
わたしたちが傍にいてあげたり、薬を飲ませてあげたりする一人ひとりのために。
ただ薬をわたすだけというのは、大きな誤りでしょう。
わたしたちは、心を与えなければならないのです。

 
 

貧しい人々から受け入れられるためには、貧しい人々のように生きねばなりません。
貧困は、わたしたちの持参金です。
わたしたちは、貧しさに耐えるのではありません。
イエス様への愛、貧しい人々への愛のために、貧しさを選ぶ事を自発的に決断したのです。

 貧困をつくるのは神ではなく、わたしたち人間です。
わたしたちが分かちあわないからです。
 
 

貧者とは、物資的なものや精神的なものが欠けている人々です。
飢え、渇いている人々・・・・・・・。
故郷がなく、安住の地のない人々、病気を抱えている人々・・・・・。
孤独な人々。
無知な人々や、疑い深い人々。
慰め手のない人々。
無作法な人々。
不機嫌な人々、犯罪者たちや、他人を笑いものにする人々・・・。
社会から望まれていない人々、のけ者にされている人々。
貧しい人々――― それは、何らかの形で、わたしたち自身でもあるのです。

富める国で、貧困と戦うことは、貧しい国で、戦うよりも難しいのです。

 
  お月様に貧しい人がいたら、わたしたちは、そこに行かねばなりません。 

コルコタのような状態を、貴方は世界中で見つけるでしょう。
それを見るには、ただ目が必要です。
至るところに、愛されない人々、望まれていない人々、だれも助けてあげようとしない人々、社会から追い出されたり、忘れられたりしている人々がいます。
これこそ、最大の貧しさです。

 
   多くの人は病んでいます。
自分がまったく愛されていない、関心をもってもらえない、いなくてもいい人間なんだと・・・・・
人間にとって、一番ひどい病気は、誰からも必要とされていないと、感じることです。
 金持ちと言うものは、貧者中の貧者だと、わたしは思います。
金持ちは、だいたい不幸せです。
彼らは際限なく欲しがるからです。
でも、金持ちが、皆そうだと言うわけでもありませんが・・・・・・。
 
   最大の悪は、愛の欠乏、隣人愛の欠乏です。
最大の悪は、隣人に対する、ぎりぎりの生活をしている人々に対する、搾取されている人々に対する、そして貧困や病気にさいなまれている人々に対する、恐ろしい無関心です。

ここ数年来、わたしは、いっそう確信を深めました。
それは、ひとりの人間が体験しうる最大の苦悩は、見捨てられていると感じることにあるという確信です。

 
   人は一切れのパンではなく、愛に、小さな微笑に飢えているのです。
だれからも受け入れられず、誰からも愛されず、必要とされないという悲しみ。
これこそ、本当の飢えなのです。
愛を与え、愛を受けることを知らない人は、貧しい人の中でも、もっとも貧しい人です。
 エイズは神様からの罰ではありません。
患者さんたちは、なんらかの罪があって、この病気にかかったのではないのです。
あるシスターも、注射の針が刺さって、エイズに感染しました。
彼女は少しずつ死へと向かっていきました。
わたしたちに、判断を下すことは許されません。
 
   堕胎は、ほんとうに恐ろしいことです。
母親が命と愛、すなわち、子どもの命と、母の良心を破壊するからです。
子どもたちは、神様のいちばん美しい贈り物です。
望まれようと望まれまいと、子どもたちは、一人ひとり、生まれてくる権利を持っています。
 
   望まれないと言うことは、ひとりの人間が出会いうる最悪の病いです。
唯一可能な治療法は、喜んで使える手と、絶え間なく、愛する心です。
 愛はまず家庭から始まるのです。
愛は家庭に住まうものです。
子どもたちは、家庭の中に愛や微笑を見つけることが出来ません。
子どもたちは寂しすぎるのです。
さびしさを紛らわすために、外へさがし求めにゆくのです。
 
 スラムの中で、わたしたちは、貧しい人々に注がれる神様の慈愛を示す光です。
子どもたちに、貧しい人々に、悩みや孤独のうちにあるすべての人々に、いつも、幸せなほほえみを贈りなさい。
彼らのお世話をするだけではなく、あなた方の心を贈りなさい。
  隣人愛の働きとは、わたしたちの中にある神様の愛があふれ出ることに他なりません。
より深く神様に結ばれている人ほど、いっそう深く隣人を愛するものです。 
 

もし、わたしたちが互いに愛し合うなら、そして平和、喜び、主の現存を家々にもたらすなら、わたしたちは世の中のすべての悪に、打ち勝つことが出来るのです。

 
  愛は、どんな季節にも実る果実であり、誰の手にも届くところに実っています。 
 愛を播いた人は、取り入れの時期がくるのを待たねばなりません。  
  わたしたちは忙しすぎます。
ほほえみを交わす暇さえありません。
ほほえみ、ふれあいを忘れた人がいます。
これはとても大きな貧困です。
 愛というガウンには、縁飾りがついています。
しかも、その縁はごみに触ります。
ですから、愛は、道や路地から、ごみを掃き出すことが出来ます。
愛は、汚れを清める役割を果たさなければなりません。
 
   ほんとうに愛したいと思うなら、痛みを覚えるまでに与えなければなりません。
そうすれば、わたしたちの愛は、わたしたち自身から自由になり、他の人々にとって、信じるに足るものとなります。
 愛は、心の奥に埋もれたままにしておくことは許されません。
ともし火は、ともして、ますの下に置くのでなく、家の中のものすべてを照らすために燭台の上に置くものです。
 
   あなたのなさることを、わたしは出来ません。
そして、わたしのすることを、あなたは出来ないでしょう。
でも、わたしたちはみんな、神様がおゆだねになったことを果たします。
わたしたちは、ときどきそのことを忘れ、他人のことを見たり、何かほかのことをしようと望んだりして、時間をむだにするのです。
 傲慢で、ぶっきらぼうで、利己的になるのはいともたやすいことです。
でもわたしたちは、もっと素晴らしいことのために作られているのです。
 
 

苦しみに出逢ったときには、微笑みをもって、それを受け取りましょう。
これこそ、神様の最大の恵み、つまり、神様がわたしたちにお与えになること。わたしたちにお求めになること、すべてを、微笑みをもって受け取るということなのです。

 はじめの頃、わたしは人を回心させなければならない、と思っていました。そうこうするうちに、わたしの使命は、愛することだと判りました。
そして、愛は望むときに、回心させてくれるのだ、ということがわかったのです。
 

わたしたちの言うことは、大切ではありません。
わたしたちを通して、神様がおっしゃることが、大切なのです。

   無理なことをどうこう思い悩むのは、無駄なことです。
できないことは、神様がお望みでないのだと思いなさい。
 喜びに満たされている人は、お説教しないで、お説教しています。

木々、花々、草々は、静けさのうちに成長します。
星々、太陽、月は、静けさのうちに動いています。
静けさは、わたしたちに、物事に対する新しい見方を与えてくれます。 

 
 

命は生きています。この命を守りなさい。

 
   祈りは、わたしたちに、清い心を与えてくれます。
清い心には、神様を見る力があります。
まず知りあうこと。
知りあえば、お互いに愛しあうようになるでしょう。
互いに愛しあえば、支えあうようになるでしょう。
もしほんとうに愛したいとねがうのなら、ゆるすことを知らなければなりません。
 
 

沈黙の実りは祈りです。

祈りの実りは信仰です。

信仰の実りは愛です。

愛の実りは仕えること。

仕えることの実りは平和です。 

   愛を種蒔きして、熟するのを待つと、

平和という果実が実ります。

わたしたちは愛するため、

そして、愛されるために、

生まれてきたのです。
  あなたがたが汲む泉は、十分に深くなければなりません。
そうすれば、あなた方が愛している人々は、
遅かれ早かれ、どこからその愛が湧き出ているかが、わかるでしょう。
 
   未来の計画を立てることは、愛深い神様にお任せしましょう。
明日は、まだ、来ていないのですから。
わたしたちたちには今日だけがあります。
人々を助けるために、神様を知り、愛し、そして、お仕えするために。
   多くの人々が、生きてきたように、死んでいきます。
死は人生の続編、その仕上げにほかなりません・・・・。
この命は終わりではありません。
もし、これが終わりだと思う人には、死は恐ろしいことです。
死は、神様のもとへ戻る通路にほかならないということを人々に納得させることができれば、もうそこには何の恐れもないでしょう。
 
  天国に行ってはじめて、わたしたちが、貧しい人々に大きな悟りがあるということに、気づくでしょう。神様をもっと、お愛しすることができるようにと、
とりわけ貧しい人々が助けてくれたということに。 
 

 あなたは、この世にのぞまれて生まれてきた大切な人。

あなたがなんであり、

どこの国の人であろうと、

金持ちであろうと、

貧乏であろうと、

それは問題ではありません。

あなたは、同じ神様がおつくりになった同じ神様のこどもです。

            *長い間、ご愛読ありがとうございました。

 
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