埴生の宿

97歳の方が、小学生低学年向けに書いた本がある。

勿論出版社も児童向け絵本や、童話を専門にしている会社である。

漢字は易しいものまですべてルビが附ってある。

内容は、童話でもなければ子供向けのお話でもない。

大人が読んでも感動する実話であり、清貧の思想といってもよい。

ただ、非常にわかりやすく、平易な言葉を用いている。

ほのぼのと〈子供でも読める〉と安心して大人が子供に買い与えてやれる、という理

由から子供向けにした、に過ぎないように思える素敵な本に出会った。

「千佳慕の横浜ハイカラ貧乏記」(フレーベル館) である。

図書館に行っても、本屋さんでも、児童向けコーナーにおいてあり、大人が手にする

ことは余程のことでもない限り無いだろう。

熊田千佳慕(ちかぼ)さんが絵本画家になって貧乏生活が始まり、60年余りの生活を

まるで少年のような澄んだ目と、濁りがない純な心を持ち続けたままで書き綴ったも

のである。

 

絵本画家になった年を千佳慕さんは「ビンボーズ元年」と自分で呼んでいる。

貧乏を〈ビンボー〉と言わず、〈ビンボーズ〉と呼ぶのは、『ビンボーが一つでなく

いっぱいあるから。
それに「ズ」をつけると野球チームみたいで、楽しくなります。

貧乏というと、暗く悲しいイメージがありますが、こんなことをいうだけで、すこしで

も明るく暮らしていけるのなら、それにこしたことはありません。』と書いている。

 

その生活ぶりは、「衣」は、つぎはぎだらけであっても、絶えず奥さんの踏み続けるミ

シンで助けられ、「食」は、なんとか飢えることなく、生きてくることができたことに

感謝し、「住」は、築
100年の農家の物置を改造した3畳と、6畳2間の借家である。

何故このような生活が本の題名になる「ハイカラ」なのだろうと、いぶかしくなるかも

しれない。

 

千佳慕さんがエピローグでこんな風に書いている。

『ボロ家で地震や台風におびえ、つぎはぎだらけの衣服を身にまとい、ささやかな食事

をいただく生活をしながらも、いざ外出するときには、兄のおさがりや妻がバーゲンで

みつけてくれたスーツを、横浜ハイカラ風に颯爽と着こなし、ダンディーな紳士になり

きりました。これぞ、ビンボーズ美学といえましょう。』

おそらく、編集者も千佳慕さんも、目に見えるもの、形だけをとらえて、ハイカラと名

づけたのではないだろう。

千佳慕さんの生きざまそのもの、千佳慕さんを支えた家族の生き方そのものが、「ハイ

カラ」と映るのである。

 

消費こそ美徳、に慣らされ富がこの世の成功と、ひたすら物質を追い求める現代社会。

どこかで、〈本当にこれでいいのだろうか?〉という声も私たちの心の奥に、ひそやか

に聞える。

それゆえに、千佳慕さんが97歳にして、まだ失わないまっすぐな心に誰もが驚嘆させ

られるのである。

 

ところで、千佳慕さんは本の中で、自分の住まいをたびたび「埴生の宿」 と書いてい

る。
「埴生の宿」と言えば、私たちの世代には、中学の音楽で習った懐かしい曲の題名

として思い浮かぶ。

歌詞は格調が高く、哀調を帯びたメロディ、優雅なテンポで日本人に親しみを持たれて

いる、イングランドの名曲である。

日本語の歌詞は次のとおり訳されて、多くの人に愛されている。

 

「埴生の宿もわが宿   玉のよそい   うらやまじ

 のどかなりや     春のそら

 花はあるじ      鳥は友

 ああ わが宿よ    たのしともよ  たのもしや。

 

 ふみよむ窓もわが窓  瑠璃の床も   うらやまじ

 きよらなりや     秋の夜半   

 月はあるじ      むしは友   

 おお わが窓よ    たのしともよ  たのもしや。」

意味も良く判らずに、字面だけ覚えて得意になってしまう、そんなことが人生には、度

々あるのではないだろうか。

実は、この曲も私にとってはそんな出会いの思い出深いものだった。

平仮名で書いてある歌詞を勝手に漢字に置き換え、自分勝手に解釈をしていた。

〈玉の装い、裏山路〉、こう漢字で書くのだろう・・・・美しい玉のような装いをした

山の裏地、〈埴生の宿〉とはきっと山奥の静かな立派な宿屋を言うのだろうな。

中学生のころは本気で、ずっとそう思っていた。

 

本当は、〈埴生の宿〉とは土で塗ったみすぼらしい家のことであり、〈うらやまじ〉は

羨ましがらない、の意であると正しく知ったのは数年を経てからであった。

それからだった。

この歌に非常な愛着を持ち、身近に感じ、自分を重ね合わせるように歌を口ずさんだ。

その頃の住まいは、終戦後急ごしらえで建てられたまま、世間に忘れられたバラックの

小さな家だった。

狭いトタン屋根の家は天井もなく夏暑く、冬は隙間風が通り抜け寒く、大雨に雨漏りを

心配し、玄関と言えるものもなく、建てつけの悪い入口の硝子戸が出入り口だった。

まさに埴生の宿とは、我が宿であったのである。

他人の、〈玉の装い〉、〈瑠璃の床〉、の豊かさを、羨望の目で見ずに、心豊かに暮ら

そうとする、 貧しい自分達の境遇と余りにも酷似していた。

勿論私たちだけでなく、敗戦後の多くの日本人が、また同じ立場に立たされていたのか

もしれない。

まさに、食べるために必死の時代だった。

生きてゆくこと、それはまさに、どのようにその日を食べてゆくかだった。

 

竹山道夫さんの「ビルマの竪琴」という小説がある。

「埴生の宿」の曲はこの中にも出てくる。

映画化もされたが、残念ながら私は見ていない。

小説と映画では全然違う扱われ方であるというが、映画の場合はこんな風に書かれてい

た。

 

『ビルマの竪琴で感動的シーンの演出にこの曲は一役買っている。

タイ国境付近の村で日本の小部隊が何千というイギリス軍に囲まれてしまう。

その時日本兵が「埴生の宿」を日本語で歌うと、それを聞いたイギリス兵が英語で合唱

した。

一つの歌で心を通い合わせた両軍は戦闘をやめた。「歌が国境を超える」そんな言葉を

実感させる名シーンだ。』

 

千佳慕さんは85歳の時に高島屋で行った絵の展覧会で、自らの〈埴生の宿〉と呼んで

いる自分の家にある仕事部屋の、実物大のモデルを展示した。

説明不足もあり、多くの人々にその時に誤解をあたえたという。

『その仕事部屋を見た人たちの会話を聞いていておどろいたのは、ちゃんとした説明が

書かれていなかったせいでしょうが、「これはかって、熊田先生が貧乏時代に苦労され

た部屋で、いまでは豪邸にすんでいらっしゃる」という声が多かったこと。

これが、正真正銘、ぼくの仕事部屋だというのに‐‐‐‐。』と、書かれている。

 

おそらくは、日本一の絵本画家といっても過言ではないが、ただ、余りの制作の遅さゆ

えに、貧しさから抜け出せなかった千佳慕さん。

必然的に迫りくる貧乏を、〈ビンボーズ〉と明るさにかえ、自分の仕事を神様から与え

られたものと考え、どんなにお金を積まれても、原画を手放さなかった千佳慕さん。

「私は虫であり、虫はわたしである」と悟った千佳慕さんはまさに埴生の宿の歌詞通り

の人生だったように映る。

 

歌詞の2番にある通りの【きよらなりや 秋の夜半 月はあるじ 虫はとも】の98

の生涯だった。

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